恵み豊かな神さま2022年06月05日

しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。
                       列王記第一 15章4節

 列王記第一15章は、イスラエル(北王国)も、またユダ(南王国)も、目まぐるしく王様が変わっています。
 まずユダ(南王国)の王は、レハブアム王 → アビヤム王 → アサ王 → ヨシャファテ王と変わっています。
 またイスラエル(北王国)の王は、ヤロブアム王 → ナダブ王 → バアシャ王と変わっています。
 またそれぞれの王と神さまとの関係も記されていて、ユダ(南王国)のアビヤム王について聖書は「かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった」(3節)とあり、またアサ王については「父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行った」(11節)とあります。一方イスラエル(北王国)の方は、ナダブ王について「彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪の道を歩んだ」(26節)とあります。またバアシャ王は、ナダブ王を殺し、代わって王となっています。またそれだけではなく「ヤロブアムの全家を討ち、ヤロブアムに属する息ある者を一人も残さず、根絶やしにした」(29節)とあります。
 しかし、冒頭の聖書箇所にある通り「ダビデに免じて」、神さまは、ユダ(南王国)も、イスラエル(北王国)も守られています。十戒の中にある神さまのことばを思い出します。

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。(中略)それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
                  出エジプト記20章4~6節(抜粋)

 「父の咎を子に報い、三代、四代にまで」に対して、恵みは「千代にまで」です。
「神さまの恵み」の豊かさを教えられます。
 今週も年間聖句にあるように、「あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになる」神さまを見上げて歩みましょう。         (吉持日輪生)

この流れにあらがう2022年06月12日

彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
                       列王記第一 16章31節

 列王記第一16章では、イスラエル(北王国)のことだけが記されていて、やはり目まぐるしく王様が変わっています。前章からのバアシャ王 → エラ王 → ジムリ王 → オムリ王 → アハブ王 です。
 また聖書は、それぞれの王様の神さまに対する姿勢も記しています。バアシャ王に対しては、「ヤロブアムの道に歩み」(2節)とあり、エラ王に対しては、父であるバアシャ王と同じ罪の道を歩んだことが記されています。そのエラ王は、家来のジムリに殺されジムリが王となります。
 そのジムリ王について聖書は、「ヤロブアムの道に歩んだ」(19節)と記しています。ジムリ王の次のオムニ王については、「彼以前のだれよりも悪いことをした」(25節)、「ネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み」(26節)と書かれています。
 そしてこの章最後に紹介されている、オムリ王の子どもアハブ王ですが、彼について聖書は、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行なった」(30節)、「ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」(31節)と記しています。
 このように列王記第一16章は、イスラエル(北王国)が、悪の中に、どんどんと沈んでいく様子が記されています。「ヤロブアムの道に歩み」→「ヤロブアムのすべての道に歩み」→「ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」。
 しかしこのような姿は、数千年前のイスラエルの話だけではなく、今も続いていることです。罪が罪を生み、悪が悪を深めていく様子。これは、私たちが接している社会の中にも、また私たちの心の中にもあります。だからこそ、私たちは7日に1回、神さまの前に出て、心の中を点検することで、この流れにあらがい、流されないようにする必要があるのです。
 今日も、神さまの前に心を整え、今日から始まる一週間を歩み始めましょう。
                              (吉持日輪生)

預言者エリヤの登場2022年06月19日

ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」             
                           列王記第一 17章1節

 前章でアハブ王について、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行なった」(16章30節)、「ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」(16章31節)と記されていた通り、最悪の時代に登場した預言者がエリヤでした。
 預言者エリヤは、預言者の中の預言者として新約聖書にもその名前が度々登場するだけでなく、マタイの福音書17章に記されているイエスさまが変貌される場面では、モーセと共にエリヤが現れたことが記されています。

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
                         マタイの福音書17章3節

 預言者エリヤが、列王記第一17章で伝えたかったことは、冒頭引用箇所にも記されている「イスラエルの神、主は生きておられる」というメッセージです。さらに「イスラエルの神、主は生きておられる」ことが、エリヤの日々の食事が烏によって届けられたり、やもめの家の「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった」ことを通しても、明らかにされていきます。
 そしてこの章の後半で、そのやもめの息子が病気になり亡くなる中で、預言者エリヤの祈りが献げられます。

彼(エリヤ)は主に叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
                        列王記第一17章20~21節

 この祈りを通して「やもめの息子」は生き返ります。つまりエリヤを通して、「神さまは、生きておられること」、そして「いのちの管理者、責任者であること」が明らかにされます。
 今週も、「主は生きておられ、私たちにいのちを与え続けてくださるお方」であることを信じつつ歩みましょう。                (吉持日輪生)

「すべての営みに時がある」(伝道者の書3章1節抜粋)2022年06月26日

かなりの日数を経て、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」  
                          列王記第一 18章1節

 この上記の内容は、17章1節と呼応しています。

ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」             
                          列王記第一 17章1節

 「ここ数年の間」とあった通り「(霧も、雨も降らなくなって)3年目」に、エリヤを通して雨が降りますが、なぜ神さまは「3年目」という時を選ばれたのでしょうか。しかも18章では、バアルという異教の神との対決において、圧倒的な存在感を示しています。

彼ら(バアルに仕える祭司たち)はますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。                 
                          列王記第一 18章28~29節

 それに対して聖書の神さまは、次のように存在感を現わしています。

「…私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。     
                          列王記第一 18章37~38節

 これほどまでの圧倒的な存在感を、なぜ神さまはもっと早く現わされなかったのでしょうか。同じような問いは、イエスさまによる贖いの十字架にも抱きます。「なぜもっと早く…」。しかし、神さまの営みには「時がある」のです。

すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
                           伝道者の書 3章1節

 今週も、「神さまの時」を、神さまに信頼し、祈りつつ歩みましょう。
                 (吉持日輪生)