ヨブの友シュアハ人ビルダデの登場2025年01月12日

次に、シュアハ人ビルダデが答えた。 
                      ヨブ記8章1節

 ヨブの友として二人目のシュアハ人ビルダデが登場します。ヨブの友として登場した一人目のテマン人エリファズは、「テマン人」が「エサウ(ヤコブの兄)の長子」であることから、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の流れから外れていることがわかります。一方「シュアハ人」は、創世記25章1~2節に登場します。

アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。彼女はアブラハムに、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハを産んだ。
                      創世記25章1~2節

 このことからシュアハは、アブラハムの最初の妻サラとの間の子ではなく、妻サラが亡くなった後にアブラハムが結婚したケトラとの間の子であることがわかります。やはり「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という主流派から少し外れているという点では、ヨブの一人目の友人と似ています。そしてシュアハ人ビルダデの主張は、「もし、あなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう」(6節)、「見よ。神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない」(20節)というものでした。
 ヨブ記4~5章で読んできたテマン人エリファズの主張と同様に、シュアハ人ビルダデの主張も、ヨブ自身の中に、今回の苦しみの原因があるというものでした。この主張自体は間違いではありませんが、これまでも触れてきた通り、ヨブ記1~2章を知っているヨブ記の読み手である私たちは、事実との違いを感じてしまいます。
 そしてそのような違いに触れる時、サムエル記第一2章に記されていた「ハンナの祈り」の一部を思い出します。

おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。
                      サムエル記第一2章3節

 今週も「おごり高ぶって、多くのことを語る」ことがないように、神さまの前に慎み深く歩みましょう。                   (吉持日輪生)

ヨブのように2025年01月05日

ですから、私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます。
                   ヨブ記7章11節

 ヨブの友であるテマン人エリファズの発言は、ヨブ記1章~2章を知らないからこそ、的外れな発言でした。しかし、ヨブも同じ状況でした。当然と言えば当然でしょう。財産を失い、子どもを失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患っているのですから。
 そしてヨブは、そのような状況の中、冒頭引用個所にある通り、「自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆」いています。
 私たちは、このようなヨブの姿から慰めを覚えます。なぜなら私たちも「試練の中にあって」「霊の苦しみの中にあって」、また「たましいの苦悩の中にあって」嘆くからです。ヨブのように「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかって」(ヨブ記1章1節)いても、「朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げ」(1章5節)ていても、また神さまから「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1章8節)と言われるような人でもです。
 いよいよ2024年も終わり、2025年が始まりました。年が変わっても、それぞれが置かれている状況、抱えている問題や課題、直面している試練や苦しみは変わらないことでしょう。私たちクリスチャンも、神さまから「問題や課題」「試練や苦しみ」の意味を教えていただくまでは、ヨブのように「自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆く」ことが許されているのです。
 私たちは、全ての源である神さまを信じる者として、大いに嘆き、大いに祈り、大いに神さまに礼拝を献げるのです。今年も週に1回、それぞれの生活している空間、状況から離れて、主の日の礼拝を共に献げ続けましょう。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。     
                  ローマ人への手紙11章36節  
                                 (吉持日輪生)

ヨブの苦悶2024年12月29日

ヨブは答えた。ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。
                         ヨブ記6章1~3節

 ヨブ記6章に記されているヨブのことばは、テマン人エリファズへの返答です。ヨブは、ヨブ記3章で自ら語ったことばが「激しかった」と反省の気持ちを表しつつも、その理由を明らかにしています。それは、「海の砂よりも重い」「苦悶」でした。財産を失い、子ども失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患う。しかもそのような苦しみを背負わなければならない理由、意味も分からない。そのような中での「苦悶」です。
 テマン人エリファズは、ヨブが苦しみを背負った理由、意味を次のように説明していました。

さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。                
                         ヨブ記4章7~8節

 つまりテマン人エリファズの主張は、ヨブの中に「不法」「害悪」があったから、その苦しみを刈り取っているというものでした。
 しかし私たちは、ヨブ記1章~2章を通して、ヨブが苦しみを背負うことになった理由を知っているため、テマン人エリファズの主張が間違っていることがわかります。ところが、ヨブはその苦しみの理由を知らないからこそ、ヨブの苦悶は続いているのです。
 私たちも、ヨブほどではないにしても、今、背負っている、また直面している「苦しみ」の意味が分からないために「苦悶」することがあります。その時の解決は、親に聞くことでもなく、また友人知人に聞くことでもなく、またこの世で地位の高い人や、社会的に力のある人に聞くのでもありません。そうではなく、すべてを知っておられ、すべての源である神さまに聞くことです。
 2024年に直面した苦しみの意味を神さまに問いかけつつ、新しく迎える2025年も神さまに一つ一つの意味を教えていただきながら、「地の塩」「世の光」としての歩みを重ねていきましょう。              (吉持日輪生)

テマン人エリファズの神理解(※「神理解」とは神をどのように理解しているか、ということ)2024年12月22日

神は低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。
神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない。
                        ヨブ記5章11~12節

 旧約聖書における主流派(アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神)の流れから外れていることを想像させる「テマン人エリファズ」の神理解が、冒頭で引用した個所に明確に記されています。他にも以下のような内容が記されています。

神は貧しい者を剣から、剣の刃から、強い者の手から救われる。
こうして弱い者は望みを抱き、不正は口をつぐむ。
                        ヨブ記5章15~16節

 ここに記されているようなテマン人エリファズの神理解は、私たちが持っている神理解と大きく違うものではありません。とても理解しやすい、受けとめやすい内容です。けれども私たちも含めヨブ記の読み手は、既にヨブ記1~2章を読み、神さまとサタンとのやり取りを知っているからこそ、テマン人エリファズの理解が間違っていることもわかります。
 聖書が語る天地万物を造られた神さまは、あまりにも大きく豊かなお方だからこそ、どんなに聖書を読み、どんなに神さまと祈りの交わりを深めても、私たちの能力で完全に理解できる存在ではありません。
 そういう意味で、私たちは常に、神さまのほんの一部分しか理解できていないことをわきまえておく必要があります。新約聖書ではこのように教えられています。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。       
                       コリント人への手紙第一13章4節

 神さまからの愛を注いでいただき、今週も「自慢せず」「高慢になりません」と慎みをもってクリスマスを迎え、クリスマスを喜びましょう。(吉持日輪生)

テマン人エリファズの登場2024年12月15日

すると、テマン人エリファズが話し始めた。  
                      ヨブ記4章1節

 上記引用個所に登場する「テマン人エリファズ」ですが、このエリファズの名前は、ヨブ記だけに登場するものではありません。同一人物かは別にして下記の通りです。

エサウの子の名は次のとおり。エサウの妻アダの子エリファズ、(中略)エリファズの子はテマン、(中略)エサウの子で首長は次のとおり。エサウの長子エリファズの子では、首長テマン…                  
                      創世記36章10~15節(抜粋)

 このような創世記36章の記述から「エリファズ」は、エサウの長子であり、さらにエリファズの子にテマンが登場します。つまりエリファズは、アブラハムのひ孫、イサクの孫となります。出エジプト記を読んでいると「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(3章6節、15節、4章5節)という表現が登場しますが、ヤコブの兄エサウは、この流れから外れています。つまり「テマン人エリファズ」という名称は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の流れから外れた人物のことばという印象を読み手に知らせています。
 しかしテマン人エリファズの発言は、とてもバランスがとれています。ヨブのことを「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけてきた。あなたのことばは、つまずいた者を起こし、くずおれる膝をしっかりさせてきた」(3~4節)と評価しています。けれども同時に「さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ」(7~8節)と主張し、ヨブが受けた災いが、ヨブの中に原因があり、その刈り取りをしたと考えています。
 ヨブ記の楽しみは、まさにこの点にあります。読者は、ヨブ記1章、2章で、ヨブが受けた災いの原因が神さまにあることを知りつつ、テマン人エリファズの主張を読むことができます。テマン人エリファズの主張は、確かに納得させられる要素がありますが、しかし神さまの前の事実とは違います。この神さまの前での事実と、私たち人間の理解とには常に大きなギャップがあることを、私たちはヨブ記を読み進めながら確認していくのです。
 聖書を通して示されているように、神さまは、ひとり子イエスさまを与えるほどにあなたのことを愛しておられます。この事実を、自分の考えや他の人の意見などよりも大切にすること、優先すること。これがキリスト教の信仰です。今週もこの信仰に立って歩みましょう。                          
                       (吉持日輪生)

人は心騒ぎ、心乱れる2024年12月08日

安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心は乱れている。  
                         ヨブ記3章26節

 ヨブは、ヨブ記1章で全ての子ども、全ての財産を失った時、下記の通り主をほめたたえています。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」          
                         ヨブ記1章21節

 またヨブは、ヨブ記2章で足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打たれた時も、下記の通り「唇によって罪に陥ること」はありませんでした。

しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。
                         ヨブ記2章10節

 しかしヨブは、ヨブ記3章に入ると、神さまを直接呪うことはしませんが、自分が生まれたことを、また生きていることを呪っています。

そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。
ヨブは言った。
私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。
                         ヨブ記3章1~3節

 そしてヨブ自身、ヨブ記3章の最後で「心は乱れている」と自らの精神状況を告白しています。神さまから「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(ヨブ記1章8節、2章3節)と言われたヨブが、「自分の生まれた日を呪う」ほど心乱れ、生まれた日を呪うという状況になっています。
 だからこそイエスさまは、このように語られます。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
                         ヨハネの福音書14章1節

 今週も、神を信じ、イエスさまを信じて歩みましょう。
                        (吉持日輪生)

幸いも、災いも神さまから2024年12月01日

しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。
                             ヨブ記2章10節

 ヨブ記2章でも冒頭で主(神さま)とサタンのやり取りが記されています。主(神さま)は、全ての財産を失ってしまったヨブのことをこのように評価しています。

主はサタンに言われた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお、自分の誠実さを堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を呑み尽くそうとしたが。」    ヨブ記2章3節

 それに対してサタンは、このように語っています。
 
サタンは主に答えた。「皮の代わりは、皮をもってします。自分のいのちの代わりには、人は財産すべてを与えるものです。しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」
                            ヨブ記2章4~5節

 またしても神さまは、サタンにそそのかされるような形で、サタンにヨブの身体に試練をあたえることを許可します。そのためヨブは、足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打たれます。しかしそのような状況の中、ヨブは冒頭で引用した通り、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」と語り、「唇によって罪に陥ることはなかった」と書かれています。
 ヨブ記は、このようにヨブの知らないところで、神さまの許可のもと、サタンによって全ての財産を失い、自らの身体にも悪性の腫物を背負うことになりますが、唇による罪に陥りませんでした。
 私またちもヨブにならい、どのような試練の中にあっても「唇による罪に陥らない」ようにしましょう。              (吉持日輪生)

神をほめたたえる者として歩もう2024年11月24日

ある日、神の子らがやって来て、主の前に立った。サタンもやって来て、彼らの中にいた。主はサタンに言われた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えた。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
                      ヨブ記1章6~7節

 今週からヨブ記ですが、先週まで取り扱ってきたエステル記との違いをとても感じる内容です。「神」も、「主」も、そして「悪魔」も、「サタン」も出てこないエステル記に対して、ヨブ記は冒頭引用個所の通り、いきなり「主」と「サタン」の会話から始まっています。そしてその内容は、「えっ?」と驚かされるものです。

主はサタンに言われた。「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。
                      ヨブ記1章12節

 サタンは、主(神さま)の許可を受け、ヨブの財産をすべて失わせます。多くの若い者たちを失い(15、16、17節)、牛とろばを失い(14節)、羊を失い(16節)、らくだを失い(17節)、そして息子、娘たちを失います(19節)。
 神さまを信じ、神さまの前に正しく歩んでいても、それでも神さまがサタンにヨブの財産を任せてしまったために起こった悲劇です。エステル記からの流れで読むと、神さまを認めていても、認めていなくても、悲劇は起こり、多くの命が失われていくことに目が向けられます。そのような中、ヨブは神さまに礼拝を献げ、このように語ります。

このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」       
                         ヨブ記1章20~21節

 このヨブの姿から、私たちは人間の「創造の原点」に立ち返らされます。それは神に似せて創造された人として、神さまをほめたたえることです。なぜなら神さまが、私たちに与えてくださっているものは、計り知れないからです。
 今週も、失ったものではなく、神さまが与えてくださっているものに目を留め、感謝し、賛美して歩みましょう。 
                        (吉持日輪生)

平和を語る者となる2024年11月17日

実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。         エステル記10章3節

 先週も触れましたが、エステル記は、「神」ということばも、神さまを表す「主」ということばも出てこない書物です。そして今回取り上げるエステル記10章の締めくくりも、神なき社会、神なき時代の中にあっても、大切なことが記されています。それは、モルデカイの姿を通して示されている「自分の全民族に平和を語る者」の存在です。
 イエスさまは、イエス・キリストを信じる者に次のように語られています。

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
                      マタイの福音書5章13~14節

 このイエスさまのおことばから、教会ではクリスチャンの存在が、「地の塩」「世の光」となるようにと祈り、取り組んでいます。この「地の塩」「世の光」の中には、まさにエステル記に記されている「平和を語る者」としての役割も含まれているように思います。
 イエスさまは、さらにこのようにも教えられました。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
                          マタイの福音書5章9節

 私たちが、今、生きている社会、時代が、たとえ神を認める社会や時代でなかったとしても、その社会、時代に生かされている「地の塩」「世の光」として、平和を語り続け、平和をつくり続ける者として歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)

エステル記から学ぶこと2024年11月10日

第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令と法令が実施された。ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった。 
                エステル記9章1節

 冒頭の「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった」と読むと、少し戸惑いを覚えながらも、「神さまがそのようにされたのか」と受容できますが、その先を読み進めると、本当にこれでいいのかと思ってしまいます。

王は王妃エステルに言った。「ユダヤ人はスサの城で、五百人とハマンの息子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。ところで、あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたのさらなる望みは何か。   それをかなえてやろう。」
エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、明日も、スサにいるユダヤ人に、今日の法令どおりにすることをお許しください。そして、ハマンの息子十人を柱にかけてください。」
                エステル記9章12~13節

 「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった」だけでなく、さらにもう一日「ユダヤ人の敵」を攻撃することを求め、そしてそれが実施されていきます。
 「神さまの愛」とか「神さまの赦し」など微塵も感じられない内容です。このようなエステル記から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。それはまさに人間の罪深さです。聖書の神さまを信じていても、また信じていなくても、私たちの中にはエステルと同様、「目には目」(出エジプト記21章24節前半)では終われない愚かさがあります。
 「神」ということばも、神さまを表す「主」ということばも出てこないエステル記は、まさに神を認めない社会の罪深さに満ちています。私たちはエステル記を読みつつ、同じ罪深さが私の中にもあることを自覚し、だからこそ神さまを認め、神さまにその罪を赦していただく経験を重ね、私たちがまずお互いに愛し合い、赦し合う関係になることを求めていくことです。
 今週も、お互いに愛し合い、赦し合う関係の中を歩みましょう。 
                  (吉持日輪生)