神さまの御怒りは恵み ― 2024年01月07日
① ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行った。
歴代誌第二24章2節
② その後のことであった。ヨアシュは主の宮を新しくすることを志し、
歴代誌第二24章4節
③ そこで王は、かしらであるエホヤダを呼んで、彼に言った。「なぜあなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの会衆があかしの天幕のために定めた税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。」それは、悪女アタルヤとその子らが、神の宮に押し入り、主の宮の聖なるものをすべてバアルの神々のために用いていたからである。 歴代誌第二24章6~7節
①の聖書箇所にある通り、祭司エホヤダが生きている間、ヨアシュ王は主の目にかなうことを行いました。「主の目にかなうこと」の一つが②に引用している「主の宮を新しくする」計画でした。しかし、その計画を進めていく中で、祭司エホヤダの課題が見えてきます。それが③です。なんと「悪女アタルヤとその子らが、神の宮に押し入り、主の宮の聖なるものをすべてバアルの神々のために用いていた」にもかかわらず、祭司エホヤダはそれを止めることも、また神の宮から追い出すこともできていなかったのです。
しかし、そのような弱さのある祭司エホヤダでしたが、彼の死後、ヨアシュ王は、神さまの望まれる道から大きく逸れて行きます。
エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。
歴代誌第二24章17~18節
罪を犯してしまったアダムとエバの子孫としての「人」の罪深さを覚えると共に、そのような私たちに「御怒り」を現わしてくださる神さまの恵みを感じます。なぜなら神さまの「御怒り」に直面し、私たちは悔い改めに導かれるからです。今週も、神さまの「御怒り」に速やかに悔い改めをもって応えましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第二24章2節
② その後のことであった。ヨアシュは主の宮を新しくすることを志し、
歴代誌第二24章4節
③ そこで王は、かしらであるエホヤダを呼んで、彼に言った。「なぜあなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの会衆があかしの天幕のために定めた税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。」それは、悪女アタルヤとその子らが、神の宮に押し入り、主の宮の聖なるものをすべてバアルの神々のために用いていたからである。 歴代誌第二24章6~7節
①の聖書箇所にある通り、祭司エホヤダが生きている間、ヨアシュ王は主の目にかなうことを行いました。「主の目にかなうこと」の一つが②に引用している「主の宮を新しくする」計画でした。しかし、その計画を進めていく中で、祭司エホヤダの課題が見えてきます。それが③です。なんと「悪女アタルヤとその子らが、神の宮に押し入り、主の宮の聖なるものをすべてバアルの神々のために用いていた」にもかかわらず、祭司エホヤダはそれを止めることも、また神の宮から追い出すこともできていなかったのです。
しかし、そのような弱さのある祭司エホヤダでしたが、彼の死後、ヨアシュ王は、神さまの望まれる道から大きく逸れて行きます。
エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた。彼らのこの罪過のゆえに、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。
歴代誌第二24章17~18節
罪を犯してしまったアダムとエバの子孫としての「人」の罪深さを覚えると共に、そのような私たちに「御怒り」を現わしてくださる神さまの恵みを感じます。なぜなら神さまの「御怒り」に直面し、私たちは悔い改めに導かれるからです。今週も、神さまの「御怒り」に速やかに悔い改めをもって応えましょう。 (吉持日輪生)
「全き心」とは ― 2024年01月14日
彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。
歴代誌第二25章2節
歴代誌第二25章では、ヨアシュ王の子アマツヤのことが紹介されています。今回は、登場人物であるアマツヤ王ではなく、冒頭引用箇所で使われている「全き心」ということばに注目したいと思います。
① 「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。
列王記第二20章3節
② わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
歴代誌第一28章9節
③ 民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。
歴代誌第一29章9節
①では「全き心」が「真実」と一緒に使われ、②では「喜び」と共に使われ、③では「自ら進んで」と共に使われています。「全き心」とは、「真実な心」であり、「喜びのある心」であり、「自主的な心」と重なるものなのでしょう。また「全き」と訳されているヘブル語の意味を調べると「完全な、安らかな、安全な」と紹介されています。つまり「全き心」とは、「完全な心」「安らかな心」「安全な心」とも言えます。
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
ヨハネの福音書14章27節
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。
ヨハネの福音書16章33節
イエスさまが与えてくださる「平安」の心、「全き心」をもって今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第二25章2節
歴代誌第二25章では、ヨアシュ王の子アマツヤのことが紹介されています。今回は、登場人物であるアマツヤ王ではなく、冒頭引用箇所で使われている「全き心」ということばに注目したいと思います。
① 「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。
列王記第二20章3節
② わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。
歴代誌第一28章9節
③ 民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。
歴代誌第一29章9節
①では「全き心」が「真実」と一緒に使われ、②では「喜び」と共に使われ、③では「自ら進んで」と共に使われています。「全き心」とは、「真実な心」であり、「喜びのある心」であり、「自主的な心」と重なるものなのでしょう。また「全き」と訳されているヘブル語の意味を調べると「完全な、安らかな、安全な」と紹介されています。つまり「全き心」とは、「完全な心」「安らかな心」「安全な心」とも言えます。
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
ヨハネの福音書14章27節
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。
ヨハネの福音書16章33節
イエスさまが与えてくださる「平安」の心、「全き心」をもって今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
神を認めることを教える ― 2024年01月21日
神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた。
歴代誌第二 26章5節
上記聖書箇所に「神を認めることを教えたゼカリヤ」と記されているところの「ゼカリヤ」ですが、誰でしょうか。旧約聖書の一つに「ゼカリヤ書」がありますが、その「ゼカリヤ」なのでしょうか。私の手元にある聖書辞典を開けると、なんと旧約聖書には31人もの「ゼカリヤ」が登場するようです。つまり旧約聖書には、様々な「ゼカリヤ」が登場しているということです。このように当時よく使われていた「ゼカリヤ」ですが、その名前の意味を調べると、「主は覚えてくださる」という意味のようです。子どもに「ゼカリヤ(主は覚えてくださる)」と名づけ、自分の子どものことを、またその時代のことを「主は覚えてくださる」と信じたのでしょう。
さてウジヤ王の時代に「神を認めることを教えたゼカリヤ」ですが、聖書には何も詳細については記されていません。ですからこのゼカリヤが、ウジヤ王にどのようにして「神を認めること」を教えたのかなどを知ることができません。しかし、かすかに想像することができる手がかりが一つあります。それは「認める」と訳されているヘブル語です。この同じヘブル語は、実は創世記1章に7回使われています。その使われ方は、「(良しと)見られた」(4、10、12、18、21、25、31節)と訳されています。つまり「神を認めることを教えた」とは、「神を見ることを教えた」と言い換えることもできるのです。
ここで注目し、確認しなければならないことは、ゼカリヤはウジヤ王に「神を信じるように教えた」のではなかったということです。ゼカリヤは、ウジヤ王に「神さまを見ることを教え」「神さまを認めることを教え」たのです。そしてウジヤ王は、「神を求めた」と聖書は記しています。
これは、私たちの伝道にも参考になります。私たちクリスチャンにできることは、家族、友人、知人に、神さまを見ることできるように指し示し、神さまを認めることができるように証しし、神さまを求めることができるように導くことです。今週も、神さまを指し示し、証しし、神さまの元に共に導いていきましょう。
(吉持日輪生)
歴代誌第二 26章5節
上記聖書箇所に「神を認めることを教えたゼカリヤ」と記されているところの「ゼカリヤ」ですが、誰でしょうか。旧約聖書の一つに「ゼカリヤ書」がありますが、その「ゼカリヤ」なのでしょうか。私の手元にある聖書辞典を開けると、なんと旧約聖書には31人もの「ゼカリヤ」が登場するようです。つまり旧約聖書には、様々な「ゼカリヤ」が登場しているということです。このように当時よく使われていた「ゼカリヤ」ですが、その名前の意味を調べると、「主は覚えてくださる」という意味のようです。子どもに「ゼカリヤ(主は覚えてくださる)」と名づけ、自分の子どものことを、またその時代のことを「主は覚えてくださる」と信じたのでしょう。
さてウジヤ王の時代に「神を認めることを教えたゼカリヤ」ですが、聖書には何も詳細については記されていません。ですからこのゼカリヤが、ウジヤ王にどのようにして「神を認めること」を教えたのかなどを知ることができません。しかし、かすかに想像することができる手がかりが一つあります。それは「認める」と訳されているヘブル語です。この同じヘブル語は、実は創世記1章に7回使われています。その使われ方は、「(良しと)見られた」(4、10、12、18、21、25、31節)と訳されています。つまり「神を認めることを教えた」とは、「神を見ることを教えた」と言い換えることもできるのです。
ここで注目し、確認しなければならないことは、ゼカリヤはウジヤ王に「神を信じるように教えた」のではなかったということです。ゼカリヤは、ウジヤ王に「神さまを見ることを教え」「神さまを認めることを教え」たのです。そしてウジヤ王は、「神を求めた」と聖書は記しています。
これは、私たちの伝道にも参考になります。私たちクリスチャンにできることは、家族、友人、知人に、神さまを見ることできるように指し示し、神さまを認めることができるように証しし、神さまを求めることができるように導くことです。今週も、神さまを指し示し、証しし、神さまの元に共に導いていきましょう。
(吉持日輪生)
私たちがすべきこと、担わされていること ― 2024年01月28日
彼(ヨタム王)は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。ただし、主の神殿に入ることはしなかった。民は依然として滅びに向かっていた。 歴代誌第二 27章2節
上記聖書箇所最後の「民は依然として滅びに向かっていた」が、とても心を騒がせます。しかしこのような状況の中で、ヨタム王がしたことは、次のようなものでした。
彼(ヨタム王)は主の宮の上の門を建てた。また、オフェルの城壁の上に多くのものを建てた。彼はユダの山地に町々を建て、森林地帯には城塞とやぐらを築いた。 歴代誌第二 27章3~4節
「民が依然として滅びに向かっている」にもかかわらず、ヨタム王は「主の宮の上の門を建て」「オフェルの城壁の上に多くのものを建て」「ユダの山地に町々を建て」「森林地帯には城塞とやぐらを築いた」とあります。「依然として滅びに向かっている」状況とのギャップを感じます。
ヨタム王は、このような状況の中にあって、王としてもっと霊的なこと、信仰的なことに取り組むべきだったのではないでしょうか。しかしヨタム王、父ウジヤ王が神殿でツァラアトになったこと(歴代誌第二26章16~19節)が影響しているのか、冒頭引用箇所にある通り「主の神殿に入ることはしなかった」とあります。神さまに信頼し、神さまに聞くことはせず、「建物」「城塞」「やぐら」を建てることで、民を守ろうとしたのでしょうが、このヨタム王の行動は、まさに的外れでした。
しかし、このような状況は過去だけのことではありません。私たちが置かれている状況も同じです。イエス・キリストの救いを受け入れなければ、「依然として滅びに向かっている」私たちであるにもかかわらず、私たちのまわりの政治家が考えることは、経済を豊かにすること、軍事力を上げることばかりです。
だからこそ神さまは、私たちキリスト者を「イエス・キリストが身をもって成し遂げてくださった救い」を届けるために、「地の塩」「世の光」としてこの世に存在させておられるのです。
今週も、私たちが「依然として滅びに向かっている」ことを自覚し、聖書が語る「福音」を一人ひとりのところに、伝わるように、わかるようにお届けしていきましょう。 (吉持日輪生)
上記聖書箇所最後の「民は依然として滅びに向かっていた」が、とても心を騒がせます。しかしこのような状況の中で、ヨタム王がしたことは、次のようなものでした。
彼(ヨタム王)は主の宮の上の門を建てた。また、オフェルの城壁の上に多くのものを建てた。彼はユダの山地に町々を建て、森林地帯には城塞とやぐらを築いた。 歴代誌第二 27章3~4節
「民が依然として滅びに向かっている」にもかかわらず、ヨタム王は「主の宮の上の門を建て」「オフェルの城壁の上に多くのものを建て」「ユダの山地に町々を建て」「森林地帯には城塞とやぐらを築いた」とあります。「依然として滅びに向かっている」状況とのギャップを感じます。
ヨタム王は、このような状況の中にあって、王としてもっと霊的なこと、信仰的なことに取り組むべきだったのではないでしょうか。しかしヨタム王、父ウジヤ王が神殿でツァラアトになったこと(歴代誌第二26章16~19節)が影響しているのか、冒頭引用箇所にある通り「主の神殿に入ることはしなかった」とあります。神さまに信頼し、神さまに聞くことはせず、「建物」「城塞」「やぐら」を建てることで、民を守ろうとしたのでしょうが、このヨタム王の行動は、まさに的外れでした。
しかし、このような状況は過去だけのことではありません。私たちが置かれている状況も同じです。イエス・キリストの救いを受け入れなければ、「依然として滅びに向かっている」私たちであるにもかかわらず、私たちのまわりの政治家が考えることは、経済を豊かにすること、軍事力を上げることばかりです。
だからこそ神さまは、私たちキリスト者を「イエス・キリストが身をもって成し遂げてくださった救い」を届けるために、「地の塩」「世の光」としてこの世に存在させておられるのです。
今週も、私たちが「依然として滅びに向かっている」ことを自覚し、聖書が語る「福音」を一人ひとりのところに、伝わるように、わかるようにお届けしていきましょう。 (吉持日輪生)
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