「アサ」が来た!2023年11月05日

彼は異教の祭壇と高き所を取り除き、石の柱を砕き、アシェラ像を切り倒し、ユダの人々に命じて、彼らの父祖の神、主を求めさせ、その律法と命令を行わせた。彼はユダのすべての町から高き所と香の台を取り除いた。こうして、王国は彼のもとに平穏であった。(中略)主が彼に安息を与えられたので、当時数年の間、国は平穏を保ち、彼と戦う者はいなかった。         歴代誌第二14章3~6節

 ソロモン王の息子レハブアム王から始まった南王国(ユダ)の王は、その後レハブアム王の子アビヤ、アビヤ王の子アサへと引き継がれていきます。歴代誌第二14章は、そのアサ王の時代のことが記されています。
 アサ王は、冒頭引用した通り「異教の祭壇と高き所を取り除き」「石の柱を砕き」「アシェラ像を切り倒し」(3節)、「町から高き所と香の台を取り除き」(5節)と、天地万物を造られた神さまに目を向けられるように様々なものを「取り除き」「砕き」「切り倒し」た王さまでした。そしてその結果、「王国は平穏であった」(5節)、「安息を与え」「国は平穏を保ち」(6節)と記されています。
 私たちも、このアサ王に学ぶとしたら、聖書の神さまに目を向けるために妨げとなっているものを「取り除き」「砕き」「切り倒す」ことです。そして聖書の神さまとの関係を整えることです。その時、そこに「平穏」「安息」が生まれてきます。
 しかも歴代誌第二14章では、アサ王の軍(ユダの兵30万人、ベニヤミンの兵28万人)に対して、クシュ人ゼラフの軍は「100万人の軍勢」「300台の戦車」という圧倒的に軍力の差、軍力の違いがある戦いに対して、神さまはアサ王の祈りに応え、勝利へと導いてくださいます。
 この出来事は、昔話、過去の話ではありません。今も、天地万物を造られた神さまとの関係を整えるならば、私たちにも「平穏」と「安息」の「朝が来る(アサが来る)」のです。今週も、神さまとの関係を整え、真っ直ぐに神さまを見上げ、信仰の歩みを進みましょう。(吉持日輪生)

神さまを慕い求める2023年11月05日

彼はアサの前に進み出て、言った。「アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ、私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨てるなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。     歴代誌第二15章2節

 上記引用箇所の中に「もし、あなたがたがこの方(神さま)を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます」と書かれています。このアザルヤの預言のことばに励まされた結果を、聖書は次のように記しています。

しかし、苦しみの中で、彼らがイスラエルの神、主に立ち返り、この方を慕い求めたところ、主は彼らにご自分を示してくださいました。 
 歴代誌第二15章4節

ユダの人々はみなその誓いを喜んだ。それは、彼らが心のすべてをもって誓いを立て、ただ一筋に主を慕い求め、そして主がご自分を彼らに示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。
                   歴代誌第二15章15節

 このような神さまは、「ご自分を示す」お方であり、「ご自分を彼らに示される」お方です。このような神さまの姿は、歴代誌だけではありません、エレミヤ書にも、次のように記されています。

あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。 
                   エレミヤ書29章13節

 聖書の神さまは、目で見たり、手で触れたりはできないけれども、私たちが、神さまを求める時、探し求める時、慕い求める時、ご自分を示してくださるお方です。今週も、聖書の神さまを慕い求めつつ歩みましょう。(吉持日輪生)

主に拠り頼む2023年11月12日

そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです。(中略)しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう。」           歴代誌第二16章7~9節

 上記引用箇所の中に「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした」とありますが、この出来事から約3000年経つ時代を生きる私たち信仰者にとっても、心にグサッとくるメッセージです。
 「あなたは、友人に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした」。
 「あなたは、お金に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした」。
 「あなたは、知恵や知識に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした」
などなど、21世紀を生きる私たちも、この時代の人たちと同様に神さまの前に、常に問われているのです。
 上記引用箇所では、さらにこのように書かれています。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです」と。「主に拠り頼むこと」「心が主と全く一つになること」このことを大切にし続けることが教えられます。
 ユダ王国のアサ王は、先週取り上げたように「神さま(主)を慕い求める」生き方をしていましたが、晩年のアサ王は、「主に拠り頼むこと」を忘れてしまっています。イエスさまが語られた言葉が思い出されます。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 
                         マタイの福音書24章13節

 私たちも、最後まで耐え忍びつつ、日々「主を慕い求め」「主に拠り頼む」者として歩みましょう。(吉持日輪生)

ヨシャファテ王の「教育」2023年11月19日

主はヨシャファテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルの神々に求めず、父祖の神に求め、その命令にしたがって歩み、イスラエルの行いに倣わなかったからである。  
                        歴代誌第二17章3~4節

 ユダ(南王国)の王アサの次に、アサ王の息子ヨシャファテが王となります。彼の取り組みは、上記引用箇所にある通り「その先祖ダビデの最初の道に歩み」「バアルの神々に求めず」「イスラエル(北王国)の行いに倣わなかった」。さらに6節ではこのように書かれています。

彼の心は主の道を大いに誇りとし、彼はさらに、高き所とアシェラ像をユダから取り除いた。 
                        歴代誌第二17章6節

 このような取り組みを実践したヨシャファテ王がさらに取り組んだことの一つとして、この章が紹介している働きは「教育」です。

彼はその治世の第三年に、彼の高官たち、ベン・ハイル、オバデヤ、ゼカリヤ、ネタンエル、ミカヤを遣わして、ユダの町々で教えさせた。
                        歴代誌第二17章7節

彼らはユダで教えた。主の律法の書を携え、ユダのすべての町を巡回して、民の間で教えた。
                        歴代誌第二17章9節

 このようにヨシャファテ王の元で「教える」働き、「教育」が「主の律法の書を携えて」行われました。その結果どのような社会が、その時代もたらされたかも聖書は記しています。

主の恐れが、ユダの周りの地のすべての王国にあったので、ヨシャファテに戦いを仕掛ける者はいなかった。              
                        歴代誌第二17章10節

 私たちも「聖書」から日々教えていただき、「平和をつくる者」としての役割をしっかり担っていきましょう。(吉持日輪生)

したたかさ、素直さ、素晴らしさ2023年11月26日


イスラエルの王はヨシャファテに言った。「私は変装して戦いに行きます。しかし、あなたは自分の王服を着ていてください。」イスラエルの王は変装し、彼らは戦いに行った。  
                    歴代誌第二18章29節

 歴代誌第二18章を読んでいると、イスラエル(北王国)の王アハブのしたたかさ、ユダ(南王国)の王ヨシャファテの素直さ、そして神さまの御業の素晴らしさを教えられます。
 冒頭引用箇所は、イスラエル(北王国)の王アハブのしたたかさが見えてくる個所です。イスラエルの王アハブは、ユダ(南王国)のヨシャファテに、自分は変装して戦いに出ることを伝え、一方ヨシャファテには、変装しないで王服のままで戦いに出るように勧めます。ヨシャファテは、何の疑い、何の疑問も抱かずにそれに従います。ヨシャファテ王の素直さが現われています。この提案の背景を知ることができる個所は30節です。

アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たちに次のように命じた。「兵とも将軍とも戦うな。ただイスラエルの王だけを狙って戦え。」
                   歴代誌第二18章30節

 アハブ王(イスラエル、北王国)は、このようなアラム王の戦い方を予想していたからこそ、「自分は変装し」「ヨシャファテ王には王服のままで行かせた」のでしょう。アハブ王の魂胆は、ヨシャファテ王を自らの身代わりにするつもりだったのかもしれません。
 しかし、全てをご存知である神さまは、何をなされたでしょうか。

そのとき、ある一人の兵士が何気なく弓を引くと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を陣営から出させてくれ。傷を負ってしまったから。」その日、戦いは激しくなった。イスラエルの王は、アラムに向かって夕方まで戦車の中で立っていたが、日没のころになって死んだ。
                    歴代誌第二18章33~34節

 名もなき一人の兵士が何気なく放った矢が、変装していたイスラエルの王(アハブ)の「胸当てと草摺の間」という狭いところに命中し、それが致命傷となりアハブ王は死にます。
 アハブ王のように要領よく、かつしたたかに生きても、神さまの御業は、そのような人間の働きで変えられるものではないことを教えられます。今週も神さまと共に歩みましょう。                      (吉持日輪生)