喜びも、悲しみも2024年04月21日

しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。
                 エズラ記3章12~13節

 冒頭聖書個所には、50年ほど壊れたままだった神殿を再建するために「宮の基が据えられたとき」のことが記されています。そこには「大声をあげて泣く」人たちと、「喜びにあふれて声を張り上げる」人たちがいました。「大声をあげて泣く」人たちについて聖書は、「以前の宮を見たことのある多くの老人たち」と記しています。そういう意味で、「宮の基が据えられたとき」の涙は、喜びの涙もあれば、かつての神殿に比べて小さな神殿であることを悲しむ涙、嘆く涙もあったのでしょう。一方、もう一つの声は、「喜びにあふれ」とあるように壊された神殿がいよいよ再建される喜びの声だったのでしょう。
 このような状況は、私たちの礼拝堂にも当てはまります。一週間をふりかえり「大声をあげて泣きたい人」もおられれば、「喜びにあふれる声を張り上げたい人」もおられる、それが礼拝堂です。
 冒頭引用個所には、さらにこのようにも記されています。「喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた」。お隣り韓国の早天祈り会や、礼拝に出席すると、大声で泣きながら「主よー!」と椅子を叩きながら祈りを献げられている方もおられれば、「主よー!」と喜び、賛美の声を上げておられる方もいます。そしてそのような祈りの姿、礼拝の姿が、「その声は遠いところまで聞こえた」とあるように、周りの方々のところに届き、宣教の広がりとなっていくのでしょう。
 茨木聖書教会の礼拝堂も、喜びの声、悲しみの声、嘆きの声など、様々な声が神さまに献げられる場所として用いられていくことが、宣教にもつながるのです。そのことを信じ、あなたの喜びの声、悲しみの声、嘆きの声をもって礼拝を献げ続けましょう。(吉持日輪生)

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