この流れにあらがう ― 2022年06月12日
彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
列王記第一 16章31節
列王記第一16章では、イスラエル(北王国)のことだけが記されていて、やはり目まぐるしく王様が変わっています。前章からのバアシャ王 → エラ王 → ジムリ王 → オムリ王 → アハブ王 です。
また聖書は、それぞれの王様の神さまに対する姿勢も記しています。バアシャ王に対しては、「ヤロブアムの道に歩み」(2節)とあり、エラ王に対しては、父であるバアシャ王と同じ罪の道を歩んだことが記されています。そのエラ王は、家来のジムリに殺されジムリが王となります。
そのジムリ王について聖書は、「ヤロブアムの道に歩んだ」(19節)と記しています。ジムリ王の次のオムニ王については、「彼以前のだれよりも悪いことをした」(25節)、「ネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み」(26節)と書かれています。
そしてこの章最後に紹介されている、オムリ王の子どもアハブ王ですが、彼について聖書は、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行なった」(30節)、「ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」(31節)と記しています。
このように列王記第一16章は、イスラエル(北王国)が、悪の中に、どんどんと沈んでいく様子が記されています。「ヤロブアムの道に歩み」→「ヤロブアムのすべての道に歩み」→「ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」。
しかしこのような姿は、数千年前のイスラエルの話だけではなく、今も続いていることです。罪が罪を生み、悪が悪を深めていく様子。これは、私たちが接している社会の中にも、また私たちの心の中にもあります。だからこそ、私たちは7日に1回、神さまの前に出て、心の中を点検することで、この流れにあらがい、流されないようにする必要があるのです。
今日も、神さまの前に心を整え、今日から始まる一週間を歩み始めましょう。
(吉持日輪生)
列王記第一 16章31節
列王記第一16章では、イスラエル(北王国)のことだけが記されていて、やはり目まぐるしく王様が変わっています。前章からのバアシャ王 → エラ王 → ジムリ王 → オムリ王 → アハブ王 です。
また聖書は、それぞれの王様の神さまに対する姿勢も記しています。バアシャ王に対しては、「ヤロブアムの道に歩み」(2節)とあり、エラ王に対しては、父であるバアシャ王と同じ罪の道を歩んだことが記されています。そのエラ王は、家来のジムリに殺されジムリが王となります。
そのジムリ王について聖書は、「ヤロブアムの道に歩んだ」(19節)と記しています。ジムリ王の次のオムニ王については、「彼以前のだれよりも悪いことをした」(25節)、「ネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み」(26節)と書かれています。
そしてこの章最後に紹介されている、オムリ王の子どもアハブ王ですが、彼について聖書は、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行なった」(30節)、「ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」(31節)と記しています。
このように列王記第一16章は、イスラエル(北王国)が、悪の中に、どんどんと沈んでいく様子が記されています。「ヤロブアムの道に歩み」→「ヤロブアムのすべての道に歩み」→「ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」。
しかしこのような姿は、数千年前のイスラエルの話だけではなく、今も続いていることです。罪が罪を生み、悪が悪を深めていく様子。これは、私たちが接している社会の中にも、また私たちの心の中にもあります。だからこそ、私たちは7日に1回、神さまの前に出て、心の中を点検することで、この流れにあらがい、流されないようにする必要があるのです。
今日も、神さまの前に心を整え、今日から始まる一週間を歩み始めましょう。
(吉持日輪生)
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