死を願う時の対処法2022年07月03日

自分(預言者エリヤ)は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」
                          列王記第一 19章4節

 上記聖書箇所の衝撃は、「預言者の中の預言者」と言われる預言者エリヤが、「自分の死を願って」いることです。この状況を作ったのは、アハブ王の妻イゼベルの言動でした。

すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」 
                          列王記第一19章2節

 このようなイゼベルに対して、預言者エリヤは3節で「自分のいのちを救うため立ち去った」とあるように、「生きよう」としています。しかし、そのすぐ後で「自分の死を願って」います。まさにここに「預言者の中の預言者」であっても「人」であると思わされます。私たちも「生きよう」「生きたい」と思いつつも、「死にたい」と考えてしまうことは良くあることです。
 さて、この預言者エリヤの姿から、私たちも「自分の死を願う」ような時の対応を学ぶことができます。まず「死にたい」と預言者エリヤが考えるようになった状況を整理すると、一つは、「自分のいのちを救うため立ち去った」(3節)とあることから、自分の力で生きようとしていたことがわかります。もう一つは、冒頭引用聖書箇所に「私は父祖たちにまさっていませんから」と、「人との比較の中にはまっていたこと」がわかります。
 「自分の力で生きよう、生きたい」と願う時、私たちも「死にたい」と考えてしまいます。また「人との比較の中にはまると」やはり、「死にたい」と考えてしまいます。しかし預言者エリヤは、「死にたい」という思いを、誰にぶつけていたでしょうか。人ではなく、神さまにぶつけています。いのちを与え、いのちを取られる神さまに自分の心の思いを吐露しています。まさにこれが「死にたい」思いへの最高の対処法です。
 私たちにいのちを与え続けてくださっている神さまの前に出る時、自分の力で生きているのではなく、神さまによって生かされていることを知り、生きることのしんどさから解放されます。また神さまは、誰かと比較して私たちを創造されたのではなく、「私を私として」創造してくださったお方であることを知る時、人と比較して生きることのしんどさからも解放されます。
 あなたも「死にたい」という思いが沸き起こる時、預言者エリヤのように神さまに問いかけましょう。そして自分の力で生きようとしたり、人との比較の中で一喜一憂する生き方から解放されましょう。あなたはあなたとして神さまに愛されています。
                  (吉持日輪生)

神さまの言葉への従順さ2022年07月10日

ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王(アハブ王)に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」       列王記第一 20章28節

 聖書の神さまの寛容さ、寛大さを知ることのできる聖書箇所です。なぜなら、神さまが助けようと手を差し伸べた相手は、あのアハブ王です。

オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。                列王記第一 16章30~31節

 このようなアハブ王が、「聖書の神さまこそ主であることを知る」ようにと、神さまは関わられています。しかし、アハブ王のベン・ハダドに対する対応を読む時(列王記第一20章31~34節)、神さまの御業を自分の手柄のように考え、とても偉そうにしています。

(アハブ)王は言った。「行って、彼を連れて来なさい。」ベン・ハダドが王のところに出て来ると、王は彼を戦車に乗せた。     列王記第一 20章33節後半

 アハブ王の勝利は、聖書の神さまによるものでした。しかしアハブ王は、自分の力で勝利した偉大な王のようにベン・ハダドに接しています。ゆえに神さまは、アハブ王に語られます。

彼(預言者)は王に言った。「主はこう言われる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」            列王記第一 20章42節

 私たちも、神さまからの「あふれる恵み」を自分の手柄のように思い違いをしないで、神さまの言葉に従順に歩みましょう。 (吉持日輪生)

素直に悔い改めよう2022年07月17日

彼(アハブ王)は、主がイスラエル人の前から追い払われたアモリ人がしたのと全く同じように、偶像につき従い、非常に忌まわしいことを行った。アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」
                   列王記第一 21章26~29節

 アハブ王は、先週も触れた通り「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行なった」(列王記第一16章30節)王さまでしたが、感受性の豊かな人物だったのかもしれません。列王記第一21章冒頭に記されている「イズレエル人ナボテのぶどう畑」の件でも、ゆずってもらえないと分かると「アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった」(列王記第一21章4節)とありました。また「今わたしは、あなたにわざわいをもたらす」(列王記第一21章21節)と言われると、上記冒頭引用箇所のように「自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた」とあります。
 この、子どものような心を持っていたアハブ王に神さまも目をとめられます。「あなた(預言者エリヤのこと)は、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない」(列王記第一21章29節)とある通りです。

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。     マルコの福音書10章15節

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ 霊の砕かれた者を救われる。
詩篇34篇18節

 今週も、「子どものように」「心の打ち砕かれた者」「霊の砕かれた者」として、日々素直に悔い改めて歩みましょう。     (吉持日輪生)

関わり続けてくださる神さま2022年07月31日

アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。           列王記第二 1章2節

 上記、列王記第二1章2節冒頭に登場する「アハズヤ」は、イスラエル(北王国)のアハブ王の息子で、アハブ王の次にイスラエル(北王国)の王となった人物です。前章にこのように記されていました。

アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャファテの第十七年にサマリアでイスラエルの王となり、二年間イスラエルの王であった。彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。              列王記第一 22章51~52節

 アハズヤ王は、父、アハブ王、母(イゼベル)の姿を見てきたからこそ、その道しか歩めなかったのでしょう。冒頭で引用した2節でも「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と語るアハズヤ王の姿も、前章で学んだ「まず、主のことばを聞こうとする」経験をしてこなかったゆえに、そうなってしまうのかと思わされます。
 しかし、そのようなイスラエル(北王国)に神さまは、あきらめず預言者を通して関わり続けます。「そのころ、主の使いがティシュベ人(預言者)エリヤに告げた」(列王記第二1章3節)とある通りです。その先の預言者エリヤとアハズヤ王から派遣される「五十人隊の長と部下五十人」の3回に及ぶ関わりには、すさまじさを感じます。父なる神さまの「関わり続ける情熱」と「気付かせるための激しさ」が強く現れています。
 「列王記」は、名前の通り、イスラエル(北王国)とユダ(南王国)に立てられる王さま列伝でありますが、それは同時に神さまが、当時のイスラエル(北王国)とユダ(南王国)に預言者を通して関わり続けられた預言者列伝でもあります。列王記第二1章で、預言者エリヤとアハズヤ王との激しい関りを記した列王記は、次回取り上げる列王記第二2章で、預言者エリヤから預言者エリシャへの働きの継承が記されていきます。
 このように関わり続けてくださる神さまは、今も私たちがどんなに罪の中にはまってしまっていても、様々な方法で、私たちに情熱と激しさをもって関わり続けてくださいます。今週も、そのような神さまに目をとめながら悔い改めと従順をもって歩みましょう。 (吉持日輪生)