教会は、みなが一緒に喜び楽しむ場所2017年12月03日

①その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。                     申命記12章7節
②あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。                         申命記12章12節
③ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。                  申命記12章18節

 上記①~③のみことばの共通点は「喜び楽しみなさい」ですが、それぞれ「どこで」「だれと」喜び楽しみなさいとあるでしょうか。①では文中に「その所で」とありますが、文脈から考えると5節の「あなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所」と考えられます。②は文脈上11節の「あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所」と考えられます。③は文中の「あなたの神、主が選ぶ場所」とあります。では「だれと」喜び楽しむのかについては、①は「家族の者とともに」とあり、②③は「息子、娘、男奴隷、女奴隷、レビ人」とあります。
 つまりこれを今日的に考えると「御名を置くため」「御名を住まわせるため」「主が選ぶ場所」とは、神さまを礼拝する場所、教会です。また「息子、娘、男奴隷、女奴隷、レビ人」とは、主にある神の家族と教職者となります。
 私たちは、今、現礼拝堂のリフォームを考えていますが、それを考えるためにも、この「教会で、主にある神の家族と教職者とが一緒に喜び楽しむ」というテーマは、参考にすべき視点だと思わされました。益々私たちの教会が、主にある神の家族と教職者とが喜び楽しむ場所として用いられるように祈りつつ、考えていきましょう。                       (吉持日輪生)

主が正しいと見られることを行う2017年12月10日

①あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、     申命記13章2節
②あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、             申命記13章6節
③よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、
                           申命記13章13節

 上記①~③のみことばの共通点は「ほかの神々」ですが、それぞれ少しずつ表現が違います。①は「あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」、②は「ほかの神々に仕えよう」、そして③は「あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう」となっています。さらに「ほかの神々」を紹介する人たちもそれぞれ違います。①は「しるしと不思議を実現させた預言者と夢見る者」が語りかけ、②は「兄弟、息子、娘、愛妻、無二の親友」がそそのかして、とあります。③は「よこしまな者たち」が語りかけています。
 さて私たちは、ここに書かれているような「ほかの神々」へのお誘いがあっても、「私は、ほかの神々になびくようなことは決してない」と強く否定することでしょう。しかし「ほかの神々」ではない、つまり宗教的な神々ではないけれども、聖書の神さま以外に頼るものを「しるしや不思議の実現」を根拠に勧められたり、信頼している「兄弟、息子、娘、愛妻、無二の親友」から誘われたりするとどうでしょうか。聖書の神さまを信じ、信頼しつつ、ほんの少しならと、誘われるこの世の知恵や、方法に頼ろうとしてしまう自分がいないでしょうか。
 申命記13章一番最後の言葉は、「あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記13章18節)です。主が正しいと見られることを今週も行っていきましょう。(吉持日輪生)

イエスさまによる「宮きよめ」のルーツ2017年12月17日

 もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。
     申命記14章24~26節

 上記聖書箇所を読み、福音書のある出来事を思い出す方は、多いのではないでしょうか。それは、福音書すべてに記されている、イエスさまが行われた「宮きよめ」です。「ユダヤ人の過越の祭りが近づき(中略)、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し…」(ヨハネの福音書2章13~15節)。宮で「牛や羊や鳩」を売るようになったルーツは、まさに申命記14章でしょう。マタイの福音書では「あなたがたはそれ(祈りの家)を強盗の巣にしている」(マタイの福音書21章13節b)とあることから、みことばの実践がいつのまにか人間の罪深さ、欲深さから、相場よりも高い値段で販売することになっていったのでしょう。それをイエスさまは、なわでむちを作り、きよめられたのです。
 このような、神さまのみことばの実践が、人間の罪深さゆえに、いつのまにか神さまの思いから遠くかけ離れたものになってしまう。これは、旧約聖書の時代や、福音書の時代だけではなく、今の私たちにも当てはまることです。例えば賛美。「賛美のいけにえ」(ヘブル人への手紙13章15節)という言葉があるように、神さまの前により良い「賛美のいけにえ」を献げられるように、練習を重ね、技術を磨くことは、すばらしいことです。しかしそれが、いつのまにか人々から評価されたり、ほめられたりすることが目的になってしまったり、また上手に賛美できない奉仕者を裁いてしまったりすることは、私たちの罪深さゆえに度々起こりうることです。しかし、そのような私たちの心を、イエスさまは、今もきよめてくださいます。今週もイエスさまに心の中を聖めていただき、みことばの実践に取り組みましょう。(吉持日輪生)

全ての所有者は神さま2017年12月24日

七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。
申命記15章1~2節

 この箇所からは、聖書における「所有」の考え方が見えてきます。1節に「七年の終わりごとに、負債の免除を」とあるように、また2節でも「隣人に貸したものを免除する」とあるように、自分が所有しているものを自由に貸すことはできますが、七年の終わりに免除しなければならないと聖書は語ります。つまり人間に許されている「所有」の権利は、期限付だということです。それでは、誰が本当の所有者なのでしょうか。そのことを2節最後から読み取ると、「主が免除を布告しておられる」(2節)とありますので、全ての所有権の持ち主は、主(神さま)です。全てを所有している主(神さま)だからこそ、1節にある通り「七年の終わりに免除しなさい」と布告できるのです。
 さて私たちは、これまで、全てを支配されている天の父なる神さまについてはよく意識することがありましたが、申命記15章からは、神さまは支配だけでなく、全てを所有しておられるお方だと教えられます。現在、私たちは彩都開拓を進めながら、宣教の拠点になる場所を祈り求めています。これまでにもいくつか私たちの目に良いと思える土地が示されてきましたが、具体的に動く前に売れてしまいました。その度に、本当に神さまは良い場所を与えてくださるのだろうか、と不安になりました。けれども私たちが信じている神さまは、この世のすべての所有者ですから、全ての所有者である神さまが、必ず良い場所を備えていてくださるとの信仰に立つ時、平安が与えられます。
 今週も、全ての所有者である神さまに信頼しつつ、だからこそ自分に託されている賜物を豊かに用いて主にお従いしていきましょう。(吉持日輪生)

「悩みのパン」を食しながらの新年2017年12月31日

 それといっしょに、パン種を入れたものを食べてはならない。七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである。それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。     申命記16章3節

 申命記16章1節に「アビブの月を守り」とありますが、これはイスラエル歴1月、ニサンの月のことです。そしてその「アビブの月」に「過越のいけにえをささげなさい」(1節)とありますので、旧約聖書出エジプト記13章に記されている、イスラエルの民がエジプトの国から脱出したことを忘れないための「過越のまつり」を守るように記している箇所です。そして上記3節では、過越のまつりでのお食事のことが記されています。「種を入れないパン」、つまりイースト菌を入れないパンですから、堅く、おせんべいのような食べ物だったと考えられます。ゆえに上記聖書箇所でも「種を入れないパン、悩みのパン」と、イースト菌なしのパンを「悩みのパン」と表現しています。まさに食べるのに一苦労の「悩みのパン」だったのでしょう。また今年秋に出版された「新改訳2017」の聖書では、同じ部分を「苦しみのパン」と訳しています。
 ちょうど私たちも新年を迎えようとしています。日本の新年の食べ物で、私たちを悩まし、苦しめる食べ物は、お餅でしょうか。ヘブル人への手紙12章1節に「まつわりつく罪」とあります。イスラエルの民が、しつこいエジプトの奴隷状態から神さまの一方的な恵みで解放されたように、私たちも、お餅のようにねばねばとまつわりつく罪から、神さまの一方的な恵みの力で解放されたことを、お餅を食べつつ思い返すことができるならば、聖書的なお正月を過ごせるのではないでしょうか。
 神さまからの祝福が、皆さまの新年の上にありますようにお祈りしています。(吉持日輪生)