イエスさまによる「宮きよめ」のルーツ2017年12月17日

 もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。
     申命記14章24~26節

 上記聖書箇所を読み、福音書のある出来事を思い出す方は、多いのではないでしょうか。それは、福音書すべてに記されている、イエスさまが行われた「宮きよめ」です。「ユダヤ人の過越の祭りが近づき(中略)、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し…」(ヨハネの福音書2章13~15節)。宮で「牛や羊や鳩」を売るようになったルーツは、まさに申命記14章でしょう。マタイの福音書では「あなたがたはそれ(祈りの家)を強盗の巣にしている」(マタイの福音書21章13節b)とあることから、みことばの実践がいつのまにか人間の罪深さ、欲深さから、相場よりも高い値段で販売することになっていったのでしょう。それをイエスさまは、なわでむちを作り、きよめられたのです。
 このような、神さまのみことばの実践が、人間の罪深さゆえに、いつのまにか神さまの思いから遠くかけ離れたものになってしまう。これは、旧約聖書の時代や、福音書の時代だけではなく、今の私たちにも当てはまることです。例えば賛美。「賛美のいけにえ」(ヘブル人への手紙13章15節)という言葉があるように、神さまの前により良い「賛美のいけにえ」を献げられるように、練習を重ね、技術を磨くことは、すばらしいことです。しかしそれが、いつのまにか人々から評価されたり、ほめられたりすることが目的になってしまったり、また上手に賛美できない奉仕者を裁いてしまったりすることは、私たちの罪深さゆえに度々起こりうることです。しかし、そのような私たちの心を、イエスさまは、今もきよめてくださいます。今週もイエスさまに心の中を聖めていただき、みことばの実践に取り組みましょう。(吉持日輪生)