「一生の間、これを読まなければならない」(申命記17章19節)内容とは2018年01月07日

 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。
                      申命記17章14~15節
 
 申命記17章では、イスラエルの民が将来王制を求めることが預言され、さらに上記15節以降では、王さまの心得まで記されています。その内容は「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない」(16節)、「多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない」「自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない」(17節)とあります。「馬を多くふやす」とは「軍事力をふやすこと」であり、「女性問題」「金銭問題」に気をつけるように促されています。さらに18節以降には、これらの戒めを忘れることがないように「自分の手もとに(戒めを書き写したものを)置き、一生の間、これを読まなければならない」(19節)と記されています。
 さて私たちも2018年を歩み始めていますが、申命記17章の王さまに対する戒めは、私たちもしっかり書き写し、それを手もとに置き、忘れないように日々読むべき内容でしょう。人間関係において「強くなり過ぎる必要もなく」、「異性との問題に気をつけ」「金銭の問題に気をつけ」る。
 ぜひこの教えを手もとに置き、日々読み続け、気をつける一年としましょう。(吉持日輪生)

主ご自身が、彼らの相続地2018年01月14日

 彼ら(レビ部族)は、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。
申命記18章2節

 「主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である」。とても励まされる神さまのおことばです。このレビ部族、創世記29章に記されているようにヤコブの子どもとして誕生します。創世記29章34節「彼女はまたみごもって、男の子を産み、『今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから』と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた」。レビとは「結ぶ」という意味の名前です。そしてそのレビ部族に神さまが与えられた役割は、神さまと民とを結ぶ祭司の役割でした。
 さて私たちのキリスト教プロテスタント派は、宗教改革者マルティン・ルターの「万人祭司」の考え方にあるように、クリスチャンひとりひとりが、祭司、つまりレビ部族の役割を担う存在であり、そのクリスチャンに神さまと回りの人たちを結ぶ働きが託されているのです。
 そのように考える時、上記申命記18章2節のことばは、私たちクリスチャンにも向けられていることばです。クリスチャンの相続地は、この世にはないけれども、「主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である」と読ませていただく時、私たちも慰められ、励まされます。
 イエスさまもヨハネの福音書15章19節で次のように語られています。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」。ヨハネの福音書17章16節「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」。
 私たちはこの世の者ではないからこそ、私たちの相続地はこの世にあるのではなく、主の元にあるのです。今週も、この世での報いに期待し過ぎず、神さまご自身が、私たちの相続地であることを喜び感謝し歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

「のがれの町」の役割2018年01月21日

 だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ」と言ったのである。あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、──私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行い、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら──そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。
                        申命記19章7~9節 

 申命記19章は、民数記35章でも取り上げられていた「のがれの町」について触れています。
この「のがれの町」で生きることが許されている人たちについて、聖書ははっきりと次のように記しています。民数記35章11節では、「あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない」とあり、また申命記19章4節では「殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である」とあります。さらに興味深い点は、民数記の方に記されているのですが、「のがれの町」がレビ人に与える町であったことです。
 先週の「恵泉」で、キリスト教プロテスタント派は、「万人祭司」の立場をとるため、クリスチャンがレビ人(レビ部族)の役割を担うことに触れました。その信仰に立つならば、現代版「のがれの町」も、私たちクリスチャンが、また教会として持つ必要があるのかもしれません。
 茨木聖書教会が、またこの地域のクリスチャンが、「のがれの町」的な役割を担うことで「あやまって」(民数記35章11節)「知らずに」(申命記19章4節)加害者になった方も、被害者の方も安心して生きられる社会を造り出すことに貢献できればと思います。祈りましょう。(吉持日輪生)

勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主2018年01月28日

 ①あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。  申命記20章1節
②彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」                申命記20章3~4節 

 冒頭に引用した①のことば、「あなたよりも多い軍勢を見ても…恐れるな」。とても励まされます。そしてその理由もシンプルです。「主が、あなたと共におられる」。②のことば、「勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である」。このことばにも励まされます。
 さて私たちは、これらのことばを争い、戦争には当てはめません。霊的な戦いに当てはめます。私たちを取り巻くこの日本という社会の霊的な状況は、とても厳しいものです。神さまに目を向けさせないための誘惑で満ち溢れています。けれども私たちは、その現状を見ても恐れません。なぜならエジプトの国、奴隷の家からイスラエルの民を連れ出した神さまが、今も、様々な誘惑の支配から、私たちひとりひとりを連れ出してくださると信じているからです。またこの現状を見て、弱気になったり、うろたえたり、おじけたりもしません。なぜなら神さまが、この霊的戦いの勝利を得させてくださると信じるからです。
 一方、この霊的現状を見て、恐れ、弱気になり、うろたえ、おじける時は、神さまを見ないで、私たちを見ている時です。共に戦う人数が少なく、戦うための道具や、戦術が軟弱であったりすると、私たちはすぐにうろたえ、おじけてしまいます。
 だからこそ今週も、神さまが共にいてくださること、神さまが勝利を得させてくださるお方であることにしっかり目を留めながら、それぞれの霊的な戦いに取り組んでいきましょう。(吉持日輪生)