主がともにいてくださることの素晴らしさ ― 2021年06月06日
サウルはダビデを恐れた。それは、主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。 サムエル記第一 18章12節
サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。 サムエル記第一 18章28節
サムエル記第一18章には、上記の通り「主がダビデとともにおられ」ということばが2回登場します。そしてその内容は、「主がともにおられる」ダビデと、「主がともにおられない」サウル王との違いです。
「主がともにおられた」ダビデからは、「ヨナタンとの間に友情が芽生え」(1~4節)、「勝利を収めるダビデ」(5~7節)、「サウル王が投げつけた槍から2回守られるダビデ」(11節)、「行くところどこでも勝利をおさめ、大勝利を収めるダビデ」(13~15節)、「皆から愛されるダビデ」(16節)、「サウル王の娘ミカルと結婚するダビデ」(27節)など、神さまの守りと祝福を読み取ることができます。
一方それに対して、主がともにおられないサウル王は、どうでしょうか。「怒り、不機嫌なサウル王」(8~9節)、「狂いわめき、ダビデをやりで殺そうとするサウル王」(10~11節)、「言動が混乱しているサウル王」(17~24節)など、混乱している姿ばかりが記されています。
ここに「主がともにいてくださること」の素晴らしさ、大切さを教えられます。だからこそイエスさまも、私たちにこのように語られています。
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
マタイの福音書28章20節
「世の終わりまで、いつもともにいる」と約束してくださっているイエスさまを信じて、今週も日々主とともに歩みましょう。 (吉持日輪生)
サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。 サムエル記第一 18章28節
サムエル記第一18章には、上記の通り「主がダビデとともにおられ」ということばが2回登場します。そしてその内容は、「主がともにおられる」ダビデと、「主がともにおられない」サウル王との違いです。
「主がともにおられた」ダビデからは、「ヨナタンとの間に友情が芽生え」(1~4節)、「勝利を収めるダビデ」(5~7節)、「サウル王が投げつけた槍から2回守られるダビデ」(11節)、「行くところどこでも勝利をおさめ、大勝利を収めるダビデ」(13~15節)、「皆から愛されるダビデ」(16節)、「サウル王の娘ミカルと結婚するダビデ」(27節)など、神さまの守りと祝福を読み取ることができます。
一方それに対して、主がともにおられないサウル王は、どうでしょうか。「怒り、不機嫌なサウル王」(8~9節)、「狂いわめき、ダビデをやりで殺そうとするサウル王」(10~11節)、「言動が混乱しているサウル王」(17~24節)など、混乱している姿ばかりが記されています。
ここに「主がともにいてくださること」の素晴らしさ、大切さを教えられます。だからこそイエスさまも、私たちにこのように語られています。
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
マタイの福音書28章20節
「世の終わりまで、いつもともにいる」と約束してくださっているイエスさまを信じて、今週も日々主とともに歩みましょう。 (吉持日輪生)
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://mikotoba.asablo.jp/blog/2021/06/06/9385189/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。