ダビデを頼りにした者たち2021年07月04日

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。                   サムエル記第一 22章2節

 先週は、サムエル記第一21章から、サウル王のもとから逃げるダビデが、まず最初に祭司のところに伺ったという「ダビデと神さまとの信頼のストーリー」を取り上げました。その時のタイトルは「ダビデが頼りにしたもの」でした。そして今回、サムエル記第一22章のタイトルを「ダビデを頼りにした者たち」としました。
 上記聖書引用箇所にはっきりと記されている通り、神さまに信頼していたダビデのもとには、様々な弱さを抱えた人々、すなわち「困窮している者」「負債のある者」「不満のある者たち」が集まりました。彼らは、ダビデを頼りに集まり、その数が400人になったというのです。弱さを抱えている人たちは、神さまに信頼する者を頼りにしたくなったのでしょう。
 一方サウル王が、攻撃し、サウル王が頼りにした者は、ダビデと真逆のものでした。11節以降サウル王が攻撃しているのは、「祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全員」(11節)、すなわちそれは「ノブにいる祭司たち」(11節)でした。そして、サウル王が頼りにした者は、「エドム人ドエグ」(9節、18節)であり、サウル王は、最終的に彼を使って祭司85人を死へと至らせました。
 ダビデとサウル王の対比をすると(→上図)

 このダビデとサウル王の違いを見て、あなたはどちらの人をモデルとしたいでしょうか。
 今週も、ダビデのように「神さまに信頼する者」として、日々神さまのことばに親しみ、神さまに祈りつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)

神さまが守られる時2021年07月11日

ダビデは主に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」(中略) ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えられた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」 
                       サムエル記第一 23章2~4節

 サムエル記第一23章を読み、印象に残るのは、ダビデが何をするにも神さまにお伺いを立てていることです。上記の聖書箇所も、まさに主に伺っている箇所です。そして神さまのお答えの通り、ダビデはケイラの町をペリシテ人から救います。しかしその後、サウル王が、ケイラの町に下って来ると、ダビデはまた神さまにお伺いを立てます。

ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は言われた。「彼らは引き渡す。」    
                       サムエル記第一 23章12節

 ダビデの中には、恐らくペリシテ人の攻撃からケイラの町を助けたのだから、自分のことをサウル王に引き渡すことはないのではという予想もあったことでしょう。しかし、神さまに伺い、神さまからはっきり「彼らは引き渡す」と聞くと、ダビデはケイラの町から出て、難を逃れます。

 神さまが守られる時、神さまはあらゆる方法で、またあらゆることを用いて、守り通されることがわかります。23章最後で、サウル王がダビデに迫ってきた時、何が起こったでしょうか。

一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」と言った。         サムエル記第一23章27節

 サウル王は、ペリシテ人の攻撃に対応するため、ダビデを追うのをやめ、ここでもダビデは守られました。ケイラでは、イスラエルにとって敵であり、ダビデに攻撃されたペリシテ人を用いて、神さまはダビデを守られたのです。
 神さまの守りは、人知を超えていることを覚えつつ、今週も神さまの守りを信じて歩みましょう。 (吉持日輪生)

主の視点で見る2021年07月18日

彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」                
                         サムエル記第一 24章6節

今日、主が洞穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたの目はご覧になったのです。ある者はあなたを殺すようにと言ったのですが、私は、あなたのことを思って、『私の主君に手を下すことはしない。あの方は主に油注がれた方だから』と言いました。
                          サムエル記第一 24章10節

 先週取り扱ったサムエル記第一23章は、何をするにも神さまにお伺いを立てるダビデの姿が記されていました。そして今週の24章では、ダビデの命を狙い続けてきたサウル王を殺すチャンスがありながらも、「主に油注がれた方」ゆえに殺さなかったダビデの誠実な姿に目が留まります。
 ダビデが、このようにサウル王と向き合うことができた理由は、サウル王を「自らの命を狙っている者」として、ダビデ中心の視点で見ないで、神さまの視点「主に油注がれた方」として見ることができたからでしょう。

 「ダビデのミクタム」と記されている詩篇16篇で、ダビデはこのように詠っています。

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。                      
                                 詩篇 16篇8節

 私たちも、目の前にある出来事、人物を、自分の主観で見て行動したり、対応したりするのではなく、神さまの視点で見ることができるならば、見えている風景は同じでも、受け止め方、行動、対応が変わることを、ダビデの姿から学びましょう。
 ダビデのように、「いつも主を前に」「主が私の右におられる」そのような思いで、今週も歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)

時代は変わる2021年07月25日

サムエルは死んだ。全イスラエルは集まって、彼のために悼み悲しみ、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒野に下って行った。
                        サムエル記第一 25章1節

十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。 
                        サムエル記第一 25章38節

 サムエル記第一25章には、上記にある通りふたりの死が記されています。ひとりは、預言者サムエル。もう一人は、ナバルです。
 預言者サムエルは、この個所が「サムエル記」に記されている通り、この書物の中心人物であり、この時代の中心人物であったにも関わらず、その死については、とてもあっさりと記されています。一方のナバルについては、死までの経緯も含めて詳細に記されています。
 この記述の違いについて思い巡らす中で、思い返されるのがサムエル記第一8章のことがらです。

しかし民は拒んで、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」サムエルは、民のすべてのことばを聞いて、それを主の耳に入れた。          
                      サムエル記第一 8章19~21節

 ここに記されている通り、イスラエルの民は、士師記の時代から続いてきた「さばきつかさ」による支配にかわって、王を求めています。そして今回のサムエル記第一25章では、サムエルの死が、静かに記され、ダビデ王の活動が詳細に記されていきます。まさに、イスラエルの国が、しっかりとした王政に移行したことを示しているのでしょう。
 私たちも、新型コロナウイルスを通して、神さまが、時々になされる時代の変化を感じています。新しい時代の新しい宣教方法についても、祈りつつ考え、また神さまに教えていただき、しっかりと身に着け、実践していきましょう。(吉持日輪生)