待ち切る信仰2021年05月02日

サウルは、サムエルがいることになっている例祭まで、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした。           サムエル記第一 13章8節

 サウルは、サムエル記第一10章で、預言者サムエルから油を注がれイスラエルの王としての歩みが始まります。その時、預言者サムエルからこのようなことが語られていました。
私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」                    サムエル記第一 10章8節

 このことは、サムエル記第一11章で、次のように確かに行われました。

サムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」 民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。         
                      サムエル記第一11章14~15節

 それから2年後、同じような場面にサウル王は置かれました。それがこのサムエル記第一13章ですが、今回は、待っても待っても預言者サムエルが現れず、サウル王は、サムエルが来る前にささげ物を献げてしまいます。聖書はその場面をこのように記しています。「彼(サウル王)が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た」(10節)。預言者サムエルは間に合って来たのですが、サウル王は待ち切れなかったということです。そのためサウル王は、預言者サムエルから「あなたは、何ということをしたのか」(11節)、「愚かなことをしたものだ」(13節)、「今や、あなたの王国は立たない」(14節)と語られます。
 私たちも主の約束を待ち望み、さらに待ち切る信仰をもって今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)

主がわれわれに味方してくださるなら2021年05月09日

ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」
                        サムエル記第一 14章6節

 サムエル記第一14章には「主がわれわれに味方してくださる」なら、「主がお救いになるのを妨げるものは何もない」出来事が2つ記されています。
 一つは、ヨナタンと道具持ちの若者による「ペリシテ人の先陣」への勝利でした。そしてその勝利は、「ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった」(19節)とあるように、ペリシテ人の陣営全体に動揺を与え、その動揺は最終的には「そこでは剣をもって同士討ちをしていて、非常に大きな混乱が起こっていた」(20節)となっていきます。そして「その日、主はイスラエルを救われた」(23節)と「救い」がもたらされたことが記されています。まさにヨナタンの信仰、「主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない」(6節)、その通りになりました。
 もう一つの「救い」は、父サウル王が息子ヨナタンを殺さなければならなかったことからの救いです。サウル王は、その日「食物を食べる者はのろわれよ」(24節)と兵たちに誓わせていました。そのことを知らなかったヨナタンは、その日、森の中にあった「蜜」を食べ、そのことのゆえにサウル王から「おまえは必ず死ななければならない」(44節)と言われます。しかし民が、「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのか」と語り出し、「こうして民がヨナタンを救った」(45節)とある通りヨナタンは救われます。
 「ヨナタンと道具持ちの若者」を用いての「救い」、そして「多くの民」を用いての「救い」。まさに「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない」ことが、この章で紹介されています。
 今週も、「主が味方してくださる」との信仰に立ち、数の大小に右往左往しないで「地の塩」「世の光」として歩みましょう。            (吉持日輪生)

聞き従うことは、いけにえにまさる2021年05月16日

サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。…」      サムエル記第一 15章22節

 サムエル記第一15章で、またもサウル王は、大きな過ちを犯しました。その核心が、上記聖書個所の中にある「聞き従うことは、いけにえにまさる」というものでした。つまりサウル王は、預言者サムエルから「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない」(3節)と命じられていたにもかかわらず、それを神さまのおことば通り行いませんでした。
 「アマレク人の王アガグを生け捕りにし」(8節)とあることから、アマレク王アガグを聖絶しませんでした。また9節にはこのように記されています。

サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。    サムエル記第一15章9節

 サウル王も、兵たちも、神さまからの「すべてのものを聖絶しなさい」「容赦してはならない」(3節)のおことばに聞き従うことをしませんでした。彼らは、神さまの命令(おことば)に、この世の価値観を割り込ませ、「肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しん」(9節)だのです。
 この課題は、イエスさまの時代にも見られます。

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。                 マタイの福音書9章13節a

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。                         マタイの福音書12章7節

 「いけにえ」より、神さまを愛すること、神さまのおことばを行うことを、神さまは喜ばれます。今週も、神さまを愛する者として、神さまのおことばを愚直に行い続けましょう。                (吉持日輪生)

「わざわいの霊」を離れ去らせるために必要なこと2021年05月23日

サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。
                    サムエル記第一 16章13~14節

 上記聖書箇所を読むと、ダビデとサウル王とのはっきりとしたコントラストを読み取ることができます。「主の霊が激しく下る」ダビデに対して、「主の霊が離れ去った」サウル王。そして「主の霊」が去った後、サウル王に与えられた霊は「わざわいの霊」でした。
 そして聖書は、その「わざわいの霊」についてこのように記しています。「わざわいをもたらす、神の霊が王をおびえさせています」(15節b)、「わざわいをもたらす、神の霊が王に臨むとき」(16節a)。「わざわいの霊」とは、「わざわいをもたらす、神の霊」であり、その霊は、王をおびえさせ、周りの人もおびえさせていたようです。
 その「わざわいの霊」「わざわいをもたらす、神の霊」対策として用意されたのが、ダビデの神さまをほめたたえる竪琴演奏でした。聖書はこのように記しています。

神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。
                        サムエル記第一16章23節

 「わざわいの霊」を離れさせるために必要なこと、それは、神さまを賛美する竪琴の音色でした。「賛美の力」を教えられます。
 コロナウイルスによる災いにおびえている私たちにとっても、コロナ対策として、ワクチン接種も必要なことですが、聖書から教えられる対策は、「神さまへの賛美」を献げることです。
 大声での賛美は控えつつも、神さまへの賛美を心から献げることを通して、今、私たちに臨んでいる「わざわいの霊」は、この地球から離れ去ります。ですから今週も、「神さまへの賛美」を献げつつ歩みましょう。        (吉持日輪生)

みことばに日々向き合う生活へのすすめ2021年05月30日

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。               サムエル記第一 17章47節

 上記聖書箇所「この戦いは主の戦いだ」を読むと、とても力付けられますが、5月10日から始まった「攻撃し合うイスラエルとガザ地区(イスラム組織ハマス)」のニュースには、とても心を痛めました。なぜなら「イスラエル人」の背景にも、「イスラム教徒」の背景にも、旧約聖書の言葉が大きく影響しているからです。上記のような「聖書のことば」は、他にもたくさんありますが、有名な個所としては次のようなものがあります。

復讐と報復はわたしのもの。それは彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来たるべき時が速やかに来る。      
                          申命記 32章35節

 ここにはっきりと「復讐と報復はわたしのもの(神さまがする)」と記されています。これらのことばが、旧約聖書を聖典としているユダヤ教徒の多いイスラエルの人たちに、またモーセ五書を聖典の一部にしているイスラム教徒の人たちにどのように響いているのか、届いているのかと考えさせられます。
 しかし、同時にそこに人間の罪深さを覚え、また神さまのことばが語られ続けなければならないこと、また日々心を新たにして神さまのことばに向き合わなければならないことを覚えます。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。 
                         ローマ人への手紙 12章2節

 今週も、神さまの前に「心を新たにすることで、自分を変えていただき」、日々歩ませていただきましょう。         (吉持日輪生)