「旧約」と「新約」の違い2020年02月02日

①申命記30章12~14節
12 これは天にあるわけではないので、「だれが私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。
13 また、これは海のかなたにあるわけではないので、「だれが私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。
14 まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。』

②ローマ人への手紙10章6~8節
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
8 では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。

 上記①は、旧約聖書申命記のことば。②は、①を引用している新約聖書ローマ人への手紙のことばです。②の内容は、引用元の①を読むと、より理解できます。
 また①の旧約聖書申命記では「私たちが行えるように」がテーマになっているのに対して、②の新約聖書ローマ人への手紙では、「信仰による義」が語られています。同じ神さまのことばを用いながら、旧約聖書と新約聖書で学び取るテーマが違うのは、とても興味深いです。そしてその違いこそが「旧約(古い契約)」と「新約(新しい契約)」の違いにつながります。「旧約」時代の神さまは、神さまの戒めを守り行なうことを求め、それを行なうことで救われると教えました。しかし、「行なうこと」「行い続けること」のできない人間に対して神さまは、新しい契約「新約」を用意してくださいました。それが、イエスさまを信じる信仰のみで「義(正しい)」と認められ、救われるという契約、約束です。
 私たちは、その「新約」の時代に生きています。信仰のみで救われている私たちは、その「救い」を土台に、やはり神さまのおことばを「あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」と受け止め、自分の救いのためでなく、信仰によって救ってくださった神さまへの感謝の応答として、神さまのおことばを実践していこうとするのです。今週もみことばの実践者として歩みましょう。(吉持日輪生)

恐れやすい私たちだからこそ2020年02月09日

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。                  申命記31章6節

主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。                     申命記31章8節

 上記の6節と8節は、似たような内容となっていますが、語られている対象が違います。6節はイスラエルの民全体に語られ、8節はヨシュアに語られています。
 神さまは「イスラエルの民全体」にも、モーセの次のリーダーとなる「ヨシュア」にも、「恐れるな」と語られています。聖書を読み親しんでいると、父なる神さまも、またイエスさまも、度々「恐れるな」「恐れてはならない」と語られています。そこから見えてくることは、それだけ私たち人間が、恐れやすい生き物だということでしょう。恐れやすいからこそ、神さまは、私たち人間に「恐れるな」と語られるのです。
 けれどもどうでしょうか。自分の心の中を見ても思わされるのですが、何度も何度も神さまから「恐れるな」と教えられているにも関わらず、私たちの中から全く「恐れ」はなくなりません。
 しかし、神さまは、そのような私たちにこのように語られます。申命記31章12節「あなたがたの神、主を恐れ(なさい)」と。つまり神さまは、「人を恐れるな」と語られると同時に、「恐れやすい」私たちに「あなたがたの神、主を恐れ(なさい)」と語られているのです。人を恐れる時の「恐れ」と、神さまを恐れる時の「恐れ」には、違いを感じますが、神さまは、私たち罪人の中にある「恐れる」という性質を、神さまに対して用いる道を用意してくださったのです。そこにも、神さまの愛、神さまのやさしさを感じます。
 今週も、「恐れ」の感情を抱くことがあるでしょう。その時こそ、私たちは告白しましょう。「私たちが、恐れるのは、人でも、この世の様々な出来事でもなく、神さま、あなたのみです」と。(吉持日輪生)

これは空虚なことばではない2020年02月16日

これは、あなたがたにとって空虚なことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばによって、ヨルダン川を渡って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことになる。         申命記32章47節

 申命記32章1~43節まで、モーセがイスラエルの民に語った「歌のことば」が続きます。そしてそれを語り終えた47節に記されていることばが上記の聖書箇所です。「これは、あなたがたにとって空虚なことばではなく、あなたがたのいのちである」。
  「空虚なことばではなく、あなたのいのちである」。この箇所を読む時、新約聖書に出て来るイエスさまのおことばを思い出します。

 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」                    ヨハネの福音書6章35節

わたしはいのちのパンです。          ヨハネの福音書6章48節

 聖書のことばは、今も変わることなく「空虚なことば」ではありません。聖書のことばに触れるひとりひとり、置かれている状況は違っても、聖書のことばによって「いのち」が与えられ、「希望」が与えられ、「生きる力」が与えられます。

 ですからイエスさまは、このようにも語られます。

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。           ヨハネの福音書11章25節

 神さまのことばは、今生きている私たちに「いのち」を与えるだけでなく、この朽ちる体を脱ぎ捨てた後も、「いのち」を与えてくださる「いのちのことば」です。
 今週も、この「いのちのことば」である聖書のことばに親しみつつ歩みましょう。    (吉持日輪生)

シメオンはどこに?2020年02月23日

次は神の人モーセが、その死を前にしてイスラエルの子らを祝福した、祝福のことばである。                       申命記 33章1節

 申命記33章は、上記1節にある通り「イスラエルの子ら」へのことばが記されています。①ルベン(6節)、②ユダ(7節)、③レビ(8~11節)、④ベニヤミン(12節)、⑤ヨセフ(13~17節)、⑥ゼブルン(18節)、⑦イッサカル(18~19節)、⑧ガド(20~21節)、⑨ダン(22節)、⑩ナフタリ(23節)、⑪アシェル(24~25節)。
 「イスラエル」とは、ヤコブが後に付けられた名前ですから、「イスラエルの子ら=ヤコブの子ら=12人」となります。けれども申命記33章に登場する部族名は11です。なぜでしょうか。誰の名前が省かれているのでしょうか。創世記35章22節以降に記されているヤコブ(イスラエル)の子ら12人の名前と照らし合わせてみました。そして分かったことは、「シメオン」の名前が、申命記33章では取り上げられていませんでした。
 その理由は、申命記には記されていませんが、創世記49章5節以降にこのように記されています。

5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。
6 わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。 彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。
7 のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。     
                               創世記 49章5~7節
 
 創世記49章7節で語られていた通り、神さまはシメオンをヤコブ(イスラエル)の中で引き裂き、散らされたゆえに、申命記の時代には、部族として消えてしまっていたのかもしれません。そしてそのような扱いを受けた理由は「怒りに任せて」(創世記49章6節)の行動でした。
 今週、私たちは「怒り、憤り」をイエスさまの元にしっかりおろし、「怒りに任せて」行動しないようにしましょう。                   (吉持日輪生)