シメオンはどこに? ― 2020年02月23日
次は神の人モーセが、その死を前にしてイスラエルの子らを祝福した、祝福のことばである。 申命記 33章1節
申命記33章は、上記1節にある通り「イスラエルの子ら」へのことばが記されています。①ルベン(6節)、②ユダ(7節)、③レビ(8~11節)、④ベニヤミン(12節)、⑤ヨセフ(13~17節)、⑥ゼブルン(18節)、⑦イッサカル(18~19節)、⑧ガド(20~21節)、⑨ダン(22節)、⑩ナフタリ(23節)、⑪アシェル(24~25節)。
「イスラエル」とは、ヤコブが後に付けられた名前ですから、「イスラエルの子ら=ヤコブの子ら=12人」となります。けれども申命記33章に登場する部族名は11です。なぜでしょうか。誰の名前が省かれているのでしょうか。創世記35章22節以降に記されているヤコブ(イスラエル)の子ら12人の名前と照らし合わせてみました。そして分かったことは、「シメオン」の名前が、申命記33章では取り上げられていませんでした。
その理由は、申命記には記されていませんが、創世記49章5節以降にこのように記されています。
5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。
6 わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。 彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。
7 のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。
創世記 49章5~7節
創世記49章7節で語られていた通り、神さまはシメオンをヤコブ(イスラエル)の中で引き裂き、散らされたゆえに、申命記の時代には、部族として消えてしまっていたのかもしれません。そしてそのような扱いを受けた理由は「怒りに任せて」(創世記49章6節)の行動でした。
今週、私たちは「怒り、憤り」をイエスさまの元にしっかりおろし、「怒りに任せて」行動しないようにしましょう。 (吉持日輪生)
申命記33章は、上記1節にある通り「イスラエルの子ら」へのことばが記されています。①ルベン(6節)、②ユダ(7節)、③レビ(8~11節)、④ベニヤミン(12節)、⑤ヨセフ(13~17節)、⑥ゼブルン(18節)、⑦イッサカル(18~19節)、⑧ガド(20~21節)、⑨ダン(22節)、⑩ナフタリ(23節)、⑪アシェル(24~25節)。
「イスラエル」とは、ヤコブが後に付けられた名前ですから、「イスラエルの子ら=ヤコブの子ら=12人」となります。けれども申命記33章に登場する部族名は11です。なぜでしょうか。誰の名前が省かれているのでしょうか。創世記35章22節以降に記されているヤコブ(イスラエル)の子ら12人の名前と照らし合わせてみました。そして分かったことは、「シメオン」の名前が、申命記33章では取り上げられていませんでした。
その理由は、申命記には記されていませんが、創世記49章5節以降にこのように記されています。
5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。
6 わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。 彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。
7 のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。
創世記 49章5~7節
創世記49章7節で語られていた通り、神さまはシメオンをヤコブ(イスラエル)の中で引き裂き、散らされたゆえに、申命記の時代には、部族として消えてしまっていたのかもしれません。そしてそのような扱いを受けた理由は「怒りに任せて」(創世記49章6節)の行動でした。
今週、私たちは「怒り、憤り」をイエスさまの元にしっかりおろし、「怒りに任せて」行動しないようにしましょう。 (吉持日輪生)
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