神さまのことばの確かさ2020年03月01日

そして主は彼に言われた。「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与える』と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。」          申命記 34章4節

 神さまは、モーセをピスガの頂に導き、そこから「約束の地」を見せますが、上記聖書箇所にある通り「あなたがそこに渡っていくことはできない」と言われます。
 モーセが80歳の時、神さまから「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである」(出エジプト記3章8節)と語られ、40年後その場所を目の当たりにしながら神さまから語られた言葉、それが「そこに渡っていくことはできない」でした。
 しかし、モーセはその神さまのことばに対して何の反論もしていません。穏やかに受け止めています。なぜでしょうか。実はこのことは申命記1章でモーセに告げられていることだったからです。

 「主はあなたがたの不平の声を聞いて怒り、誓って言われた。『この悪い世代の者たちのうちには、わたしがあなたがたの父祖たちに与えると誓った、あの良い地を見る者は一人もいない。ただエフンネの子カレブだけがそれを見ることができる。(中略)』。主はあなたがたのゆえに、この私(モーセ)に対しても怒って言われた。『あなたも、そこに入れない。あなたに仕えているヌンの子ヨシュアは、そこに入ることができる。・・・』」(申命記1章34~38節)。

 カレブとヨシュアは入れるのに、モーセは入れない。なんとも厳しいことばが申命記1章においてすでに語られていたのです。つまり申命記は、その書物の最初と最後でモーセが約束の地には入れないことを語っているのです。しかし、そこに私たちは神さまの言葉の確かさを覚えます。神さまは約束通りイスラエルの民を強国エジプトから脱出させ、約束通り約束の地にと導かれ、約束通りモーセは約束の地に入れないで終わる。今週も、この確かなる神さまのことばを握りしめつつ歩みましょう。   (吉持日輪生)

受け継がれる営み2020年03月08日

①あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。             ヨシュア記1章5節
②わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」          ヨシュア記1章9節
③私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。                    ヨシュア記1章17節

 強国エジプトから脱出する時のリーダーはモーセでしたが、モーセが亡くなり、リーダーがヨシュアに変わります。そのような大事な場面で神さまは、何をヨシュアに、そして民に語られているでしょうか。
 ①では、ヨシュアに対して「わたし(神さま)はモーセとともにいたように、あなたとともにいる」とあり、
 ②も、ヨシュアに「恐れてはならない。おののいてはならない。・・・主があなたとともにいるのだから」とあり、
 ③では、民がヨシュアに「主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように」との祈りが献げられています。
そしてこの営みは、私たちにまでつながっているのです。①から「神さまは、先輩のクリスチャンとともにおられたように、私とともにおられ」、②から「恐れてはならない、おののいてはならない。主が私とともにいるのだから」と励まされ、③からクリスチャンたちはお互いに「主が、あなたとともにおられますように」と祈り合うのです。
 今週も、この営みを実践しつつ歩みましょう。         (吉持日輪生)

過去の行いではなく、今日の信仰2020年03月15日

ヌンの子ヨシュアは、シティムから、ひそかに二人の者を偵察として遣わして言った。「さあ、あの地とエリコを見て来なさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。            
                              ヨシュア記2章1節

 上記聖書箇所に登場する「ラハブ」。彼女の名前をそれなりに有名にしているのは、マタイの福音書1章1節「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」の中に登場するからです。


サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、                マタイの福音書1章5~6節

 このようにラハブは、イエスさま誕生の系図に登場するだけでなく、ダビデ王、ソロモン王にもつながることが分かります。さらに新約聖書では2箇所でラハブのことが紹介されています。


信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。  
                       ヘブル人への手紙11章31節

同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。   
                            ヤコブの手紙2章25節

 このようにラハブのことが評価されています。しかしラハブのことを紹介する時、同時に伝えられている内容が「遊女」です。旧約聖書、新約聖書において「遊女」と訳されている言葉は、「売春婦」「神殿娼婦」「売る人」を意味していて、今日のキリスト教倫理から考えると「排除」される人でした。
 そのようなラハブが、イエスさま誕生の系図に加えられていること、また新約聖書で良い例として扱われていることから学ぶことは、神さまは過去の行いではなく、今の信仰を見られるお方ということです。
 昨日の不信仰な行動を悔い改めて、今日こそ、信仰をもって歩みましょう。                       (吉持日輪生)

かすかに、ほのかにしか見えない契約の箱2020年03月22日

民に命じた。「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」      ヨシュア記3章3~4節

 いよいよイスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、約束の地に入るところです。民に対して神さまは、「あなたがたは今まで、この道を通ったことがない」からこそ、「主の契約の箱を見」て進むようにと促しています。
 「契約の箱」は、新約時代の私たちにとっては「聖書」でしょう。さらに私たちは現在、新型コロナウイルスの恐れの中で、「通ったことのない道」を歩んでいます。そのことを考える時、私たちにとっても「契約の箱」「聖書」を見て歩むことの大切さを教えられます。
 けれどももう一つ読み取るべき点は、「契約の箱」との距離です。「あなたがたと箱の間に二千キュビトの距離をおけ」とあります。「二千キュビト」とは、1キュビトが約44.5㎝ですので、計算すると約890メートルになります。その距離は、ちょうど教会近くのファミリーマートから高瀬川通りを阪急茨木市駅に向かい舟木町交差点までの距離です。また契約の箱の大きさは、長さが約1.1メートル、幅と高さは約67センチです。それを人がかついでも、ファミリーマートから舟木町交差点を見れば、本当に小さくしか見えないことでしょう。
 このことから何を読み取ることができるでしょうか。この距離は、「契約の箱」の圧倒的な聖さを現わしているのでしょうが、同時にかすかに、ほのかにしか見えない「契約の箱」を凝視し、その契約に立って前に進むことの大切さを教えられます。
 「聖書の約束」は、現在の新型コロナウイルスの情報に比べると、本当にかすかに、ほのかにしか見えない「約束のことば」に見えます。しかし、私たちは、神さまの民だからこそ、その「約束」をしっかりと見て、信頼して、通ったことのない道を前に進むのです。今週も、神さまの「約束のことば」から目を離さないで、前進しましょう。    (吉持日輪生)

足をしっかりとどめる2020年03月29日

その者たちに命じよ。「ヨルダン川の真ん中、祭司たちが足をしっかりととどめたその場所から十二の石を取り、それらを携えて渡り、あなたがたが今夜泊まる宿営地に据えよ。」          ヨシュア記 4章3節

 この「十二の石」については、イスラエルの12部族から各部族ごとに1名が出され、その12人が、各自石を一つ肩に担いで持って行き、宿営地ギルガルに据えたことが、ヨシュア記4章に記されています。
 そしてその12の石でできた石塚は、「しるし」として残され、後に子どもたちが「この石はどういうものなのですか」(ヨシュア記4章6節)と尋ねると、「ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ」(ヨシュア記4章7節)と答えるように書かれています。
 まさに「ヨルダン川」という時代の流れに、流されず、その時代の流れをせき止め、そこを渡りきって行くイスラエルの民の姿を、記念にするようにということです。そしてヨシュア記4章はこのようなことばで締めくくられています。

それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。
                                ヨシュア記 4章24節

 「祭司たちが足をしっかりととどめたその場所から(取られた)十二の石」による石塚。私たちは、それをこの目で見ることはできません。けれども今も、時代に流されず、その流れをせき止め、「神さまのことば」に足をしっかりすえた人たちの証しを読み、聞くことができます。
 「新型コロナウイルスの脅威」という時代の流れの中にあって、私たちも「神さまのことば」という揺るぎない土台に足をしっかりととどめて、今週も歩みましょう。    (吉持日輪生)