聖なるささげ物2020年01月05日

あなたは、あなたの神、主の前で言いなさい。「あなたが私に下された命令のとおり、私は聖なるささげ物すべてを家から取り分け、それをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えました。私はあなたの命令を一つも破らず、またそれらを忘れませんでした。                     申命記 26章13節

2018年3月11日からバルナバコースのテキスト作成を念頭に置きながら、この紙面を使って笠川路人先生が、バルナバコースの内容を執筆してきました。それが2019年12月29日で終わりましたので、今回からまた2018年3月4日の続きを取り上げます。それまで1回に1章ずつ旧約聖書を読み進めてきました。2018年3月4日が申命記25章でしたので、本日は申命記26章を取り扱います。
 申命記26章は、約束の地に入り、そこで収穫した初物の一部を「聖なるささげ物」として神さまに献げることが記されています。さらに12節では「第三年、十分の一の年にあなたの収穫の十分の一をすべて納め終え、これをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与え」とあり、やはりここでも「聖なるささげ物」が、「レビ人、寄留者、孤児、やもめ」に与えられています。「聖なるささげ物」は、命令であり、イスラエル人は、それを大切にしてきました。13節の最後に「私はあなたの命令を一つも破らず、またそれらを忘れませんでした」と書かれている通りです。
 現代の私たちはどのように考えたら良いのでしょうか。奇しくも昨年10月より消費税が10%になり、政府は消費税の使途を明確化し「年金、医療及び介護の社会保障給付並びに少子化に対処するため」としています。一部、申命記に記されている「聖なるささげ物」の使途と重なっていることを考えると、私たちは物を購入する度に国を通してではあるけれども「聖なるささげ物」をしていると考えて良いのかもしれません。
 ただそれだけでは「聖なるささげ物」の使途である「レビ人、寄留者、孤児、やもめ」の必要を満たすことができないからこそ、私たちは、教会での献金を通して彼らの必要に応えられるようにしていくのです。
 今年も、喜んで「聖なるささげ物」に参加しましょう。(吉持日輪生)

受諾する姿勢は変わらない2020年01月12日

「職人の手のわざである、主が忌み嫌われる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな答えて、アーメンと言いなさい。             申命記 27章15節

 申命記27章15節以降には、「民はみな答えて、アーメンと言いなさい」(15節)、「民はみな、アーメンと言いなさい」(16~26節)という記述が、繰り返し出てきます。「アーメン」とは、「本当に」「確かに」「その通り」という意味です。つまり「受諾」のことばです。
 けれども申命記27章では、この受諾のことば「アーメン」を「アーメンと言いなさい」と、イスラエルの民への命令として伝えています。その内容は、十戒に近いものとなっていますが、十戒より卑近な表現となっています。例えば十戒の第2戒は「偶像を造ってはならない」(出エジプト記20章4節)ですが、申命記27章では「主が忌み嫌われる彫像や鋳造を造り、これをひそかに安置する者は」と、「ひそかに安置する」人の姿に言及しています。また十戒の第5戒は「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20章12節)ですが、申命記27章では「敬う」が「軽んじる」となっています。また十戒の第十戒は「あなたの隣人の家を欲してはならない」(出エジプト記20章17節)ですが、申命記27章では「隣人との地境を移す」となっています。そして申命記27章18節以降は、十戒には見られない内容で、18節では「目の見えない人を道に迷わせる者」、19節では「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者」、そして20節以降は、倫理的な内容となっています。
 このように出エジプトの時代から申命記の時代に進む中、戒めの表現は変化していきますが、私たちの戒めに対する姿勢は、「アーメンと言いなさい」とあるように、常に受諾する姿勢をとるべきだと教えられます。
 今週も、神さまが聖書を通して、またデボーションを通して示してくださる命令を、私たちも「アーメン」と受諾していく姿勢をもって歩みましょう。
(吉持日輪生)

新しい契約のすばらしさ2020年01月19日

あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。               申命記 28章 2節
しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。                 申命記 28章15節

 申命記28章は、「祝福とのろい」が具体的にしるされています。「祝福」については2~14節。「のろい」については15~68節まで続きます。圧倒的に「のろい」の方が多いことに驚かされます。この点において出エジプト記20章の「十戒」と違います。出エジプト記20章5~6節「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」
  「十戒」では、「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」とあるのに対して、「恵みを千代にまで施す」と、「咎」より「恵み」の方が圧倒的に長く続くものとして記しています。さて私たちは、申命記の時代から更に時が流れ、私たちの罪を償うために十字架に架かってくださったイエスさまによって、神さまとの新しい契約の中にいます。その新しい契約の中にある私たちについて次のように聖書は書いています。
 ローマ人への手紙8章34~39節(抜粋)「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(中略)しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 この新しい契約の中にあることを感謝しつつ、歩みましょう。(吉持日輪生)

実践の大切さ2020年01月26日

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。           申命記29章29節

 申命記は、その1章5節に「ヨルダンの川向こう、モアブの地で、モーセは次のように、みおしえの確認を行うことにした」とあるように、「モアブの地での命令」です。一方「ホレブで彼らと結ばれた契約」(申命記29章1節)は、出エジプト記20章に記されている「十戒」に代表される「シナイ山での命令」となります。「シナイ」と「ホレブ」は、旧約聖書の中で併用されており、「ホレブ」は山脈名で、「シナイ」は頂上名と説明しているものもありますが、諸説あるようです。これまで申命記27章、28章を取り扱う時も、「十戒」に代表される「シナイ山(ホレブ)での命令」と、申命記に記されている「モアブの地での命令」と比較してきましたが、モーセも「別のもの」と語っています。「これらは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエルの子らと結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である」(申命記29章1節)とある通りです。
 さて「十戒」とは別のものであるこの命令ですが、今回上記に引用したことばにあるように、神さまには「隠しておられること」があるということです。イエスさまもマタイの福音書24章36節で「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」と語られている通り、「父(なる神さま)だけが知っておられること」があるのです。私たちは「父なる神さまが隠しておられること」を知りたいと思いますが、その好奇心、その情熱は、聖書を通して語られていること、つまり神さまがことばとして現わされたことを行なうことに向けられているほうが、よりふさわしいでしょう。
 今週も、上記聖書箇所に「私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うため」とある通り、みことばの実践を大切に歩みましょう。      (吉持日輪生)