伝道者の書-「ヘレク:受ける分」2016年08月07日

見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。 伝道者の書 5章 18 節

前々回から、伝道者の書の内容を探るシリーズが始まっています。前回は、伝道者の書に登場する「ヘベル:むなしい、空(くう)」に注目しました。そこから、あらゆる結果は、労苦やその人の状態に起因しないため、労苦や生き方の結果はむなしいと言われていることがわかりました。
 今回は、「ヘレク:受ける分」に注目します。この言葉も前回と同様、労苦と深く関連しています。この言葉が登場する箇所では、労苦、仕事や生き方によって与えられ、喜び、楽しむことができるものが何であるかについて教えています。
前回と同様、紙面の都合もありますので、「ヘレク:受ける分」が登場する数箇所を紹介し、最後にまとめを記します。
「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」
(伝道者の書5:19)
「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」                (伝道者の書9:9)
「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。」           (伝道者の書 11:2)
 「ヘレク:受ける分」が登場する箇所をまとめると、神から与えられている受ける分は、労苦自体を喜びとすることと食事と夫婦関係です。前回、分かったことを踏まえると、あらゆる結果は、労苦、仕事や生き方に起因しないためむなしいが、労苦や仕事自体を喜び、そこから得た日々の糧や夫婦関係を楽しむことが受ける分だと教えていることが分かります。
 しかし、11章2節にもあるように、未来に何が起こるかわからない人間だからこそ、受ける分でさえも多くの人に分け与えるようにと命じられているのです。                    (吉持尽主伝道師)

伝道者の書-「エロヒーム:神」2016年08月14日

私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。  伝道者の書 3章 10 節

 これまで、伝道者の書の中心的なテーマは何かを探るために、2つの言葉「ヘベル:むなしい、空(くう)」、「ヘレク:受ける分」に注目しました。その結果、「あらゆる結果は、労苦、仕事や生き方に起因しないためむなしいが、労苦や仕事自体を喜び、そこから得た日々の糧や夫婦関係を楽しむことが受ける分である」という教えが浮かび上がってきました。
 今日は、「エロヒーム:神」が主語で使われている箇所に注目します。その箇所に注目すると、神が人に与えているものや神と人との関係が浮かび上がってきます。今回もこれまで同様、紙面の都合もありますので、数箇所を紹介し、最後にまとめを記します。
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」       (伝道者の書3: 14)
「私は心の中で言った。『神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。』」     (伝道者の書3: 17)
「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」                  (伝道者の書5: 19, 20)
「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」(伝道者の書7: 13)
 「エロヒーム:神」が主語で使われている箇所をまとめると、神は、人に、労苦を与え、労苦から受ける分、それに関わる幸せも与えていることが分かります。また、神はすべてを司り、裁く方であり、神のなさることは、人間には分からず、変えることができないことが言われています。全体として、読者に、人間としての自覚を持ち、神を恐れて歩むようにと教えているように思われます。
 ここまで、3つの言葉に注目してきました。これらのことから分かることを2回に分けてまとめ、このシリーズを終えたいと思います。  (吉持尽主伝道師)

伝道者の書-まとめ12016年08月21日

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。    伝道者の書 12 章1節

このシリーズは、最初に、伝道者の書の全体的なテーマや主張は何かということを問いました。これまでのことをまとめると、全体的なテーマや主張は次のようになるでしょう。「神様があらゆる結果を決めると認め、労苦や生き方の結果はむなしいと知っていく時、人は労苦自体、また労苦から得る食物や夫婦関係を喜ぶことができる。そして、それらは神様から与えられているものである。」また、一言でまとめるのであれば、「労苦について」が中心的なテーマであり、主張でしょう。
 労苦とは、苦しみが伴うものです。それは、創世記3章に起因するもので、アダムが、呪いの結果、苦しみながら地から日々の糧を得なくてはならなくなったことからきています。伝道者の書では、労苦とは、苦しみが伴うことにより、人間としての自覚を持たせ、神様を恐れるためのものとして語られています。
 私たちには、日々、仕事や生き方からの様々な苦しみがあります。しかし、それは、伝道者の書における神様の視点から見れば、人間である以上、呪いゆえに当然に伴う苦しみなのです。ただし、労苦が単なる苦しみで無くなる道が、私たちには残されています。私たちは、労苦自体を喜び、労苦から得た生活の糧や夫婦関係を楽しむことが神様から与えられているからです。
 その一例として、パウロの例が挙げられます。パウロは、神様から福音宣教に遣わされる理由としてこう言われています。「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒9: 16)パウロは、呪い、あるいは罰として福音宣教に召されたのです。しかし、彼の後の手紙でも分かるように、彼はその労苦を喜びとしています。このように、呪いや罰として与えられたものを喜ぶ道が神様から与えられているのです。
 そのためには、冒頭の聖書箇所から分かるように、神様がいることを認め、神様が全てを与えてくださっているという謙虚さを持つことが必要でしょう。日々神様の前に謙虚でありつつ、労苦を喜ぶ道へと共に導かれていきましょう。
(吉持尽主伝道師)

伝道者の書-まとめ22016年08月28日

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。 伝道者の書 12章 13,14節

 前回から、伝道者の書のまとめをしています。前回は、労苦は人間である以上、当然に伴う呪いゆえの苦しみであるが、労苦自体を喜び、労苦から得た生活の糧や夫婦関係を楽しむことができる道が神から与えられていることを確認しました。
 今回は、上記の聖書箇所、伝道者の書の最後がどのような意味を持つのかを探っていきたいと思います。
 伝道者の書ではこれまで見てきたように、労苦の結果、生き方の結果など、あらゆるものがむなしく、さらに、神から与えられている受ける分さえも分け与えるようにとも言われています。伝道者の書では、地上にあるもの、行われていることは全てむなしいと言われています。つまり、地上への執着を捨てた方が良いのです。労苦、仕事や生き方による成功、良い結果を求めることは何の意味もないのです。そして、伝道者の書の著者があらゆることを経験して至った結論が、神を恐れ、神の命令を守ることがすべてであるということなのです。
 これは、イエス様の言っていることにも通じます。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」    (マタイ6: 33, 34)
 明日を心配するということは、結果やあらゆる時が神の支配にあることを認められていないという証拠です。それらを追い求めることがむなしいと心から思えていないのです。伝道者の書が示す生き方、イエス様が示す生き方は、その日その日の労苦を人間として謙虚に受け取り、目の前の労苦に真剣に取り組むこと、そして、労苦の結果や明日の状況は人間には決められないからこそ神を恐れ、神の求めていることを行うことなのです。
 自らがどれだけ地上に執着しているかを問い、伝道者の書、そしてイエス様が求めている生き方に導かれていきましょう。       (吉持尽主伝道師)
※次週から吉持日輪生師の出エジプト記講解31章になります。