すべてを益として下さる神さま2016年09月04日

 見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。     出エジプト記31章2~5節

 さて今週より再び出エジプト記を1章ずつ読み進めていきましょう。今週の出エジプト記31章は、出エジプト記19章から始まったシナイ山頂での神さまとモーセとのやりとりが終わりとなります。18節「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた」とある通りです。
 そして冒頭にある通り、出エジプト記31章で神さまは2節で「ウリの子ベツァルエル」、6節で「ダン部族のアヒサマクの子オホリアブ」を選んだことが記されています。ベツァルエルは金や銀や青銅を細工するための設計士で、オホリアブは様々な材質の物を形にする制作者でした。
 しかし、このベツァルエルや、オホリアブの経験や技術は、どこで身に着けたものでしょうか。エジプトを脱出し、その旅の中で身に着けたのでしょうか。モーセがシナイ山に登ることが記されている出エジプト記19章1節に「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった」とあります。たった3カ月の旅で身に着けたと考えるのには無理があります。聖書は、何も記していませんので想像になりますが、恐らくエジプトの地でベツァルエルもオホリアブも、それぞれ奴隷として設計士、制作者の務めを担わされていたのでしょう。そのエジプトでの経験を神さまは、ここで豊かに用いようとしてくださっているのです。
 神さまは、クリスチャンになる前の経験も含めて、ローマ8章28節に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあるように、すべてのことを働かせて益としてくださいます。その神さまと共に今週も歩ませていただきましょう。
(吉持日輪生)

モーセのように必死に祈る2016年09月11日

 しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
出エジプト記32章11~12節

 モーセは、ここで神さまに「どうして・・・どうして・・・どうか・・・」と必死に祈っています。なぜでしょうか。「どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか」(11節)と祈っていますが、モーセは神さまの御怒りの理由を知らなかったのでしょうか。7節以降で神さまは「あなたの民は、堕落してしまったから」(7節)、「彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ・・・」(8節)と語られていますので、モーセは神さまの御怒りの理由を知っていました。ではモーセは、イスラエル人のリーダーという地位を守るために「どうして・・・」と必死に祈っているのでしょうか。それについても神さまはモーセに「(イスラエルの民が絶ち滅ぼされても)、わたしはあなたを大いなる国民としよう」(10節)と語られています。ではモーセの何が、この必死な祈りを献げさせているのでしょうか。それは、同胞イスラエル人への愛です。
 そしてここに出エジプト以前のモーセと、出エジプト後のモーセの成長の姿を見ます。モーセは、かつて同胞イスラエル人への愛を「エジプト人を打ち殺すこと」(出エジプト記2章11~14節)で実践していました。しかし、今回モーセは、同胞イスラエル人を守るために必死に神さまに祈っているのです。
 あなたは、家族を守るために、地域を守るために、国を守るために、何をしているでしょうか。私たちクリスチャンにとって神さまに必死に祈ること以上に実のある働きはありません。あの同時多発テロの2001年9月11日から15年経つ今週、あなたの大切にしている存在のために必死に祈ることの大切さを心に留めて歩みましょう。                   (吉持日輪生)

「ここ」から出発しよう!2016年09月18日

 主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。     出エジプト記33章1節 

 主(神さま)は、モーセに「ここから上って行け」と言われていますが、モーセの立っていた「ここ」とは、どのような状況、どのような場所だったのでしょうか。32章の流れから言える「ここ」とは「イスラエルの民が罪を犯した」「ここ」であり、また「金の子牛を造った」「ここ」でした。そして33章で示されている「ここ」は、「わたし(神さま)は、あなたがたのうちにあっては(一緒に)上らない」(3節)と言われた「ここ」であり、「悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった」(4節)「ここ」です。
 神さまは、アブラハムにも「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て」(創世記12章1節)と、住み慣れた地という「ここから」出発するように言われています。またイエスさまも、お弟子さんたちがイエスさまの弟子となった原点の「ここ」ガリラヤで、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28章19節)と語られています。
 そして今、あなたにも神さまは、「ここから上って行け」と語られます。それに対して私たちは「今は、忙しいです」「今は、難しいです」「もう少し先に行けば、行けると思います」と言いたくなる私が「ここ」にいます。けれども全てを知っておられる神さまは、あなたの「忙しい生活」も、「あなたの罪深さ」も、「あなたの弱さ」も、「あなたの欠け」も全て知っておられ、その上であなたに今「ここから上って行け」と語られているのです。
 私たちは、今週も、今、自分が置かれている「ここ」をしっかりと把握し、また自覚し、「ここから上って行け」と言われる神さまにお従いして行きましょう。当たり前のことですが、私たちは「ここ」からしか出発できないのですから。「ここが出発点」(この週報の表紙の言葉)。           (吉持日輪生)

祈ることの素晴らしさ!2016年09月25日

 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。       出エジプト記34章29節 

 上記にある「(モーセの)顔のはだが光を放った」は、とても興味深く、また印象に残る箇所です。新約聖書が執筆された時代でも同じように印象に残る箇所だったのでしょう、パウロもコリント人への手紙第二3章で出エジプト記34章のことを取り上げています。
 私にとっても、この部分は印象に残っていましたが、今回出エジプト記34章全体を読み返しながら、モーセが再度山に登るように言われた時の最初の表情を考えた時、そのギャップを強く思わされました。34章1、2節にはこのように書かれています。「主はモーセに仰せられた。『前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。・・・』」。この時のモーセが、顔面蒼白、緊張の面持ちであったと想像するのは簡単です。
 つまりモーセは、顔面蒼白、緊張の面持ちで神さまにお会いしに行きながら、帰る時には「顔のはだが光を放つ」ようになっていたのです。神さまと語り合うことの素晴らしさ、凄さを感じます。
 私たちも、悩みと苦しみで押しつぶされそうな中、父なる神さまにお祈りを献げ、親しく語り合う時、祈る前と祈った後では、心の状態が、全く変わっている経験をすることがあります。今も、神さまと語り合うことは、私たちの心を変え、そしてそれは表情にまで影響を与えるほどのものだということです。
 ですから今週も、親しく神さまと祈る時を持ちながら、モーセのように「顔のはだが光を放つ」日々を過ごさせていただきましょう。
 来月10月30日(日)の第3礼拝後に「祈りの日」を予定しています。教会でじっくり祈る時を持ち、みんなで顔のはだを輝かせましょう。(吉持日輪生)