20140302 失望しないで待ち続ける2014年03月02日

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」                 ガラテヤ人への手紙6章9節

 私たちは待つことが苦手です。交通の渋滞の中で、病院の待合室で、レストランで、スーパーマーケットのレジの長い列の中で待たされるとイライラします。また身動きが取れないような場面に遭遇するとき腹を立ててしまいます。人生には多くの待たなければならない時があるのです。
 さて、信仰においても、私たちは待つことを経験します。神様の約束はすぐに実現せずに、長い時間待たされることがしばしばあります。聖書に記されている偉大な信仰者たちもみな待つことを経験しています。信仰の父と呼ばれたアブラハムは息子イサクが与えられるまで何年も待たなければなりませんでした。イスラエル民族をエジプトから解放した偉大な指導者モーセは40年間ミデヤンの荒野で羊飼いとして過ごし、立ち上がるべき時を待ったのです。イスラエルの王となったダビデも若い時、王としての任職の油注ぎをいただきましたが、何年も待って、実際に王となったのはだいぶ後になってからだったのです。
 私たちは長く待つ中で、失望したり、神様を疑ったりしてしまいます。またアブラハムが約束を待てずに、妻サラの女奴隷ハガルを通して息子を得ようとしたように、自分で何とかしようと試みるのです。なかなか約束が実現しない中で、どのようにしたら失望しないで期待し続け、約束のものを手に入れることができるのでしょうか。それは私たちの人生に神様がどのように関わってくださるかを知ることによってです。
まず神様は私たちに志を与えて下さいます。しかしその志はすぐに実現しません。私たちは待たされるのです。そして困難に直面し、やがて行き詰まりを経験します。もうだめだと諦めるしかない状況に追い詰められるのです。人間的に不可能と思える状況に至った時、神様の約束が実現するのです。神様はこのように私たちに関わってくださるのです。聖書に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあるように、神様の時を失望しないで待ち続けましょう。

20140309 つぶやかずに生きるために2014年03月09日

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」            ピリピ人への手紙2章14~16節

 私たちの人生はストレスでいっぱいです。休みを取ろうとしたとき、急に仕事が入って休みを返上しなければならないときがあります。お店で買いたいものが品切れで、すぐに手に入らないときがあります。電車に乗っているとき、事故で電車が動かなくなり、予定の時間に間に合わなくなってしまうときがあります。デパートでトイレに入ろうとして、混み合っていてイライラするときがあります。私たちは大きな問題よりも、むしろ毎日の小さな問題の中でクリスチャンとしての在り方が試されているのです。どのように人生における小さなストレスに対処していけばよいのでしょうか。
 第一に、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」という聖書の言葉を心に刻むことです。私たちはイライラするとき、他の人を責めてしまうことがあります。しかし、私たちのストレスの原因が自分自身による場合が多いのです。その原因の一つは先送りです。先送りすることによって自分で自分の首を絞めてしまうようなことが起きているのです。
第二に、この状況の中で、私たちが何を学ぶことを神様が望んでいるのかを考えることです。神様は偶然にいろいろな出来事を私たちの前に置いているのではありません。私たちがイエス様のようになるために訓練しておられるのです。神様が私たちに平安を学ばせようとするとき、私たちを混乱した状態の中に置かれることがあるのです。私たちはそこから何を学ぶことができるかを考えてみることです。
第三に、神様の愛を注いでいただくことです。イライラするとき、私たちは自己中心になっています。私たちには何事をも自分中心に動かそうとする弱さがあります。愛はいらいらせず、腹を立てません。愛は自分ではなく、他の人に焦点を合わせるものだからです。

20140316 肯定的に物事をとらえる2014年03月16日

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 創世記50章20節

 人生は問題の連続です。一つの問題が解決したかと思うと、すぐに次の問題が起こります。問題が絶え間なく起きる人生の中で、私たちがいかにそれらの問題に対処するか、それが私たちの人生を大きく左右することになります。聖書は私たちに肯定的に物事をとらえる習慣を身につけるべきことを教えています。
 聖書の中で、問題が次々に起こっても決して否定的にならず、肯定的に物事をとらえた人物としてヨセフの例を挙げることができます。彼は父に溺愛されていたゆえに兄弟たちに妬まれ、エジプトに向かっていた隊商に奴隷として売られてしまいました。エジプトにおいて彼は王様に仕えていた高官の家の奴隷として働き始めました。彼は否定的にならず、置かれた状況の中で神様に信頼して主人に仕えました。やがて彼は家全体の管理を主人から信頼されて任される人になりました。
 しかしヨセフはさらなる問題に直面することになりました。それは主人の妻に気に入られ、言い寄られたことでした。ヨセフは彼女の誘惑をきっぱりと退け、主人からの信頼を裏切らず、罪を犯すことをしませんでした。その結果、彼は彼女の怒りを買い、彼女に乱暴を働いたと偽証され、投獄されてしまったのでした。その悲惨な牢獄生活の中で、ヨセフは自暴自棄にならず、神様に信頼して、良き業に励みました。やがて監獄の責任者はヨセフに囚人たちの管理を任せることになったのでした。その後、獄中で出会った王様の側近の計らいで、出獄し、王様に次ぐ地位を得て、父や兄たちを救うという驚くべき結末になったのでした。
 私たちが直面する問題は形を変えた祝福なのです。神様が問題を祝福に変えてくださるためには、私たちの側での役割があるのです。それは決して否定的にならないことです。どのような状況に置かれても、常に肯定的な考え方を保つことです。そのためにはすべてを支配しておられる愛なる神様に信頼することです。

20140323 みことばの約束を握る人になる2014年03月23日

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」 詩篇119篇105節

 人生は変化の連続です。絶え間なく時代は移り行き、その時代の波に揺り動かされ、翻弄される私たちです。変化が避けられない人生の中で、私たちはどのようにして生きていけば良いのでしょうか。聖書は何と言っているのでしょうか。上記の聖書箇所にあるように、神様の言葉である聖書に記されている約束のみことばをしっかり握る人になることです。聖書には数えきれないほどの約束が記されています。神様は私たちのすべての必要を満たすと約束しています。それらの約束の言葉の上に私たちの人生を築き上げることです。神様はうそをつくお方ではありません。神様の言葉である聖書は唯一変わることのない、信頼できる言葉です。
 預言者エレミヤは「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」(エレミヤ書15章16節)と述べています。私たちはみことばを食べるように暗唱することが大切です。いつでも神様の約束をもって神様に訴えることができるからです。私たちが神様の約束の上に人生をしっかり築き上げていくとき、大きな変化に伴うストレスに立ち向かうことができるのです。
 私にとって大切な神様の約束のみことばはピリピ人への手紙1章6節です。そこに「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」とあります。これまでこのみことばにどれほど励まされてきたことでしょうか。神様が私の内に始められた救いの御業は決して中途半端で終わることはないと確信させられてきました。たとえどのような不信仰な状態に陥ったとしても、またとんでもない失敗を仕出かしたとしても、神様の働きは決して中断されることは無いと。むしろ完成に向かって神様が働いてくださることを確信させられてきました。変化が不可避の人生の中で、神様の約束のみことばを握る人になることです。

20140330 どんなことが起きても2014年03月30日

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」     
        ヨブ記1章21節

 どんなことが起きても、また自分の願うとおりにならず、むしろ事態がだんだん悪くなって行っても、私たち神様を信じる信仰者は、「私は主に信頼します」とはっきりと言い表すべきです。その理由は、神様は愛なるお方、善きお方であり、私たちを愛しておられるからです。一番大切なひとり子のイエス様を、私たちの救いのために惜しむことなく十字架の死に渡された神様だからです。また私たちを造られたお方として、私たちに何が一番良いことなのかをご存じであり、私たちのためにすばらしいご計画を持っておられ、導いてくださるお方だからです。
 上記の聖書箇所は苦難を受けた時のヨブの言葉です。彼は一日のうちにすべての持ち物と家族を失いました。何重もの苦しみを一瞬にして体験することになったのです。その苦しみの中で彼がはっきりと言い表した言葉です。ヨブのこのような経験は究極の信仰のテストと言えます。たとえ、自分の思い通りにならなかったとしても、病気が治らなかったとしても、また明日命があるかどうか分からないような状況の中にあっても、「私は神様に信頼します」と神様に言い表すことです。
 私たちの人生は季節が移り変わるように絶え間なく変化するものです。これまでの私たちの歩みを振り返るとき、うまくいかないことがたびたびありました。たくさんの間違いを犯し、不幸があり、事故や病いに襲われることもありました。神様への信頼が揺るがされるような出来事に直面することもしばしばありました。しかしどんなことが起きても「神様に信頼します」と私たちは言い表すべきなのです。 ヨブが言ったように、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と私たちも言うべきです。