201404062014年04月06日

「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」                ローマ14章12節
「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」      第1ペテロ4章5節 

この度4月1日から茨木聖書教会牧師となりました吉持日輪生(よしもちひわお)です。週報裏の原稿を通してしばらく自己紹介と私の伝道牧会に対する姿勢を書かせていただきます。
 今回は、私の献身の原点を書きます。私は、父が牧師、祖父も牧師という家庭に育ち、幼い頃より神さまの恵み、イエスさまの救いについて聞いてきました。そのような恵みの中に生まれておきながら、高校になるまで友達を教会に誘うことも、また個人的に神さまのことを伝える働きもできてきませんでした。
 そのような私であることが意識され始めた頃、私が思わされたことは、今日もし私の命が尽き、神さまの前に立たされた時、私はどのように神さまの前に申し開きをしたら良いのだろうか、という思いでした。その答えは「何も申し開きできない」でした。なぜならば神さまは、愛するひとり子イエスさままで私の救いのために差し出してくださったにもかかわらず、また私を幼い頃より神さまの恵みの中に入れて育んでくださったにもかかわらず、その恵みに何も応えられていないからです。何も申し開きできない、その思いが切実に迫ってきた時、私の内に献身の思いが沸き起こってきました。それは「伝道できない者だからこそ、献身しよう。生涯を神さまのためにお献げしよう」という思いでした。そうすれば神さまの前に立たされた時「私は、伝道できない者だけれども、生涯を神さまに献げました」と申し開きできると考えたからです。
 今も、私は「伝道できない者」です。だからこそ茨木聖書教会に連なるお一人お一人に祈られ、支えられ、補われながら、伝道できることを本当に感謝しています。このような者ですが、ぜひ私と一緒に伝道に励みましょう。よろしくお願いいたします。

20140413 祈りの人-小学3年生まで(静岡県浜松市)のこと-2014年04月13日

私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。                  第1テサロニケ3章10節

私の生まれは静岡県浜松市です。その頃父は浜松中沢教会の牧師をしていました。礼拝堂の裏に牧師館があり、牧師館も、礼拝堂も古い建物でした。小学生に上がる頃新会堂の話しが持ち上がり始めていました。それが1972年頃でしょうか。新しい礼拝堂、そして新しい牧師館の設計図を見ながら、牧師館が3階にできること、私と兄の部屋が10帖もあることにウキウキ、ワクワクしていたことを思い出します。教会は、祈りながら会堂建築の準備を進め、いよいよ契約という時、時代はオイルショックへと突入。資材は高騰し、当初考えていた予算での建築が難しくなりました。教会は祈りましたし、私も祈りました。社会状況などさっぱりわからない私は、大人から考えると当時ありえないと思える金額を具体的にあげて祈っていたそうです。父も、その祈りを聞きながら「子どもはいいなぁ・・・まず無理だろう」と私の祈りを聞いていたそうです。けれども神さまは、不思議なことに私が祈っていた金額で請け負ってくださる会社を与えてくださり、会堂建築が動き始めました。しかし、その会堂建築と同時に動いていた話しがあり、それが父の茨木聖書教会への転任の話しでした。
 父は、浜松中沢教会の方々と共に祈り、共に考え、共に悩み、共に苦しんでやっと建てられることになった新会堂を見ることなく茨木聖書教会へ転任し、私も本当に楽しみにしていた私と兄の10帖の部屋に入ることなく引越しとなりました。父は、この出来事以来私のことを「日輪生は、祈りの人だ」と褒めてくれましたが、そのような経験をした私も、近年は忙しさの中で祈ることができなくなっていると反省しています。
 もう一度「祈りの人」となれるように、みなさんも牧師と共に祈るために教会にいらしてください。朝6時からの早天祈り会をはじめ、水曜集会において、共に祈りましょう。共に祈り、共に「祈りの人」となりましょう。

20140420 オリジナルの道-小学4年生からのこと(大阪府茨木市)-2014年04月20日

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。伝道者の書3章11節

 私は小学4年生から大池小で、中学は養精中学、高校は千里高校に通いました。中学では陸上部に入部、中学1年、2年と夏の大阪府大会で13位という微妙な成績を残しています。高校でも少し陸上をしましたが、すぐにやめてしまい、その頃からでしょうか教会で賛美する楽しみを見つけました。教会の青年たちと様々な機会に賛美をしましたが、それほど上手でもない青年たちの賛美を教会の方々も温かく受けとめてくださっていたことを思い出します。
 そのような私も大学受験を迎えましたが、勉強に身が入らず浪人。予備校に通いながら大学受験に備えますが、進路について色々悩み秋頃に出した結論は、大学受験をしないで音楽の勉強をしたいというものでした。父からは受験から逃げている反対され、兄や教会の青年たちには祈っていただき出した結論は、私立大学は受験するけれども合格しても行かない。国公立に合格したら大学に行くというものでした。なんとか関西学院大学文学部に合格。しかし手続きはせず、神戸大学を受験しましたが不合格。その発表の次の日から大阪北卸売市場の鮮魚でバイトを始め、バイトのお金で音楽の勉強をしたり、楽器を買ったりしました。卸売市場で関わる方々は教会で交わる方々とは別世界の人たちで貴重な体験となりました。またその卸売市場での2年間で、献身への迫り、家内との交際が始まり、1987年東京基督教短期大学(現在の東京基督教大学)に入学しました。
 多くの人たちが歩む道でもなく、また自分が思い描いた通りの道でもなく、まさに神さまが用意してくださったオリジナルの道を歩ませていただいていることを感謝しています。これからも神さまがそれぞれに与えてくださっているオリジナルな道をお互いに喜び合いながら祈り合いながら共に歩ませていただきましょう。

20140427 主を待ち望む者-神学生時代前半(東京都国立市)-2014年04月27日

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」       イザヤ書40章31節

21歳の4月、住み慣れた茨木の地を離れ、東京都国立市にあった全寮制の東京キリスト教学園に入学しました。2人1部屋の寮生活が始まりましたが、私の同室者はなんと60歳代の元社長さんでした。寮生全員がクリスチャンで、多くの生徒が牧師を目指している寮ですから、きっちりとした生活ができていると思っていましたが、やはり皆罪人でした。早天祈り会に出て来ない人、掃除をさぼる人、使ったものを片付けない人、共同冷蔵庫の中からは個人名が書かれた食べ物がなくなるという状況でした。
そのような現実に直面して強く思わされたことは、クリスチャンは良い人の集まりではなく、イエスさまの十字架なくしては決して救われないことを自覚している人たちの集まりだということでした。
私は、このような寮の現実にしっかりと向き合いたく1年の秋から寮運営委員に加わり、2年目の秋からは寮長を務めました。その頃の経験が、今の牧会姿勢に大きく影響しているように思います。私が特に取り組んだ分野は掃除でした。それまでの掃除区域を順番にまわしていくやり方から、それぞれが自覚と責任をもって掃除ができるように、自主的に掃除場所を選ぶ方法に変えました。楽なところを率先して選ぶこともできれば、率先して大変な場所を選ぶこともできる中、私は率先して大変な場所を選ぶようにしました。また掃除に取り組めない人には、優しくあなたが自主的に選んだのだからあなたなりの頻度であなたなりのやり方で掃除するように励ましました。なぜなら強制的に掃除をさせても、それは一時的、表面的なものであって、本当の意味でその人のものにならないからです。それよりもその人が掃除を自主的にできるまで待つことに期待しました。待つことは辛いことですが、しかしみことばにある通り「新しい力を得る」尊い時間であったと思わされています。(つづく)