人間的な「怒り」は退ける2021年04月18日

民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。          サムエル記第一 11章15節

 上記聖書箇所は、王さまを求めていたイスラエルに、ついに王さまが立てられた喜びが記されている個所です。「そこで大いに喜んだ」。
 「聴くドラマ聖書」のアプリでこの個所を聞いた時、「?」と思いました。そして聞き直して、「聖書にはこんなダジャレの個所もあるんだ」と思わず笑いました。私には、そこが「王位に喜んだ」と聞こえたからです。
 ダジャレのことは、そこまでにして、この11章には、二つの「怒り」が記されています。一つは6節、もう一つは12節です。

サウルがこれらのことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。彼の怒りは激しく燃え上がった。            サムエル記第一 11章6節

民はサムエルに言った。「『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」 
                             サムエル記第一 11章12節

 6節の「怒り」は、神さまの霊による「怒り」で、12節の「怒り」は人間的な「怒り」と言えます。そして神さまは、サウルにその「怒り」の出所を理解する力を与えてくださっていました。

 サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」   
                            サムエル記第一 11章13節

 私たちも日々の生活の中で「怒り」を覚えますが、その「怒り」がどこから来ているのかを祈りつつ峻別し、人間的な「怒り」に流されないように気を付けましょう。                        (吉持日輪生)

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