「神の箱」から見えてくること2021年03月07日

それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。                サムエル記第一 5章2~3節

 上記聖書箇所の「神の箱」「主の箱」は、出エジプト記25章10節以降に記されている「箱」のことで、「契約の箱」と言われるものです。そしてその「箱」の中には「さとしの板」(十戒の板)が入れられました。
 そのように大切な「神の箱」が奪われてしまいますが、異国の地における「神の箱」の存在は、異教の偶像ダゴンを倒し、また住民を死の恐慌と腫物で打ちました。
 しかし「神の箱」は、決して神さまではありません。ではなぜこのようなことが起こったのでしょうか。
 そのことを理解するのに参考になるのが、旧約聖書列王記第一8章27節以降です。そこにはソロモン王が建てた神殿についての祈りが献げられています。

そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。                   列王記第一8章29節

 神さまは、目を開いて「神の箱」や、「神殿」をご覧になり、そこで、またはそこに向かって献げる祈りを聞いてくださるのです。ですからやはり「神の箱」は、神さまではなく、ただただ神さまが目を留め続けてくださる場所となります。
 そのつながりで以下の聖書箇所を読む時、イエスさまに、そして私たちにも目を留め続けてくださる神さまの姿が見えてきます。

しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。
                         ヨハネの福音書2章21節

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。           コリント人への手紙第一3章16節

 神さまが、私に目を留め続けてくださり、私たちの祈りを聞いてくださることを覚えつつ、今週も歩みましょう。               (吉持日輪生)

今から3千年前も・・・2021年03月14日

人々は言った。「私たちが送るべき償いのものは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数に合わせて、五つの金の腫物、つまり五つの金のねずみです。彼ら全員、つまりあなたがたの領主たちに、同じわざわいが下ったのですから。あなたがたの腫物の像、つまり、この地を破滅させようとしているねずみの像を造り、それらをイスラエルの神に貢ぎとして献げなさい。 サムエル記第一 6章4~5節a

 上記聖書箇所の「腫物」「ねずみ」から、私たちは、ねずみによる感染症が、この地を襲ったのではないかと想像できます。ねずみによる感染症で、有名なのはペスト(黒死病)ですが、「黒死病」と名付けられたように、その感染症は皮膚が黒くなることが特徴です。しかし、上記聖書箇所の記述では「腫物」と表現されているため、この個所におけるねずみによる感染症は、皮膚に「腫物」が発症したと考えられます。そこでインターネットで検索すると、「鼠咬症(そこうしょう)」という病気が、この記述と重なります。

鼠咬症にかかると、原因菌がスピリルムの場合は、感染から1~2週間で高熱、潰瘍、局所リンパ節の腫脹が起こります。また、原因菌がストレプトバチルスの場合は、感染から10日以内に高熱、頭痛、関節炎、局所リンパ節の腫脹が起こります。
   「ネズミが原因の感染症とは!」(https://sq.jbr.co.jp/library/128)より

 「局所リンパ節の腫脹」が、「腫物」と重なるのかもしれません。ただ、今から3千年前のことですから、よくわからない点が多々ありますが、強く想像できることは「ペリシテ人の地」が感染症で打たれたということです。
 そして、この出来事から3千年たった今、まさに私たちも感染症に悩まされています。そして、今も、聖書を通して神さまが、私たちに語られている言葉は、サムエル記第一6章に記されていることばと同じでしょう。「なぜ、あなたがたは、エジプト人とファラオが心を硬くしたように、心を硬くするのですか」(サムエル記第一6章6節a)。
 コロナウイルスの災いを経験した私たちも、心を硬くしないで、神さまの前に悔い改めるべきことを悔い改め、神さまのことばに耳を傾けつつ、日々歩む者へと変えられていきましょう。                   (吉持日輪生)

あなたにとっての「エベン・エゼル」2021年03月21日

サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。                  
                          サムエル記第一 7章12節

 教会でよく歌われる賛美の中に「望みも消え行くまでに」(聖歌604番)という賛美があり、その歌詞の一部に「数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み」とあります。「エベン・エゼル」の石は、それを見る者たちの心に「ここまで主が私たちを助けてくださった」ことを思い返し、感謝を献げる場所となったことでしょう。
 では実際、サムエル記第一7章には記されている「神さまの助け」はどのようなものだったでしょうか。「主の箱を運び上げ」(1節)とあるように「主の箱(契約の箱)」がイスラエルのキルヤテ・エアリムに戻ってきたこと。「箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった」(2節)こと。また「イスラエルの全家は主を慕い求めていた」(2節)とあり、しかもその立ち返りは、さらに「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら」(3節)と語れる状況になっていたこと。そしてその語りかけに対してイスラエル人は、「『私たちは主の前に罪ある者です』と言った」(6節)と罪を認めるまでに至っています。
 「エベン・エゼル」の石に込められていた「ここまで主が私たちを助けてくださった」(12節)の中には、「罪の自覚」「罪の告白」まで助け導いてくださった思いがあったと考えられます。
 あなたの日々の信仰生活において、「エベン・エゼル」の石があるでしょうか。ぜひ、罪を自覚し、罪の告白に至る「石」を定めて、今週も歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)

拒む前にすべきこと2021年03月28日

主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。…」               サムエル記第一 8章7節

 当時のイスラエル社会の霊的指導者であった預言者サムエル。そのサムエルに民が語った内容が、下記のものでした。

彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」                    サムエル記第一 8章5節

 預言者サムエルが、しっかり自分の子どもたちを育てていれば、民から拒まれることはなかったのでしょうが、そうではなかったからこそ、民は「ほかのすべての国民のように…王を立ててください」と語っているのです。
 その民の思いが、サムエルには「悪しきこと」と見えたので、神さまに祈ります。その祈りの答えが、冒頭聖書箇所です。このやり取りの中で注目したいことは、「民が王を求めること」の神さまの前における見え方です。
 それは、「あなた(サムエル)を拒んだのではなく、わたし(神さま)を拒んだ」という見え方です。同じような表現が、出エジプト記にも記されています。

モーセはまた言った。「(中略)あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」                出エジプト記 16章8節

 ここでも民のモーセに対する不平が、「この私たち(モーセたち)に対してではなく、主に対してなのだ」とあります。批判的、拒否的になりやすい私たちも気を付けないと、神さまの目には、「主に対して」の批判、拒否と受けとめられているのかもしれません。批判する前に、拒む前に私たちがなすべきこと、それは「祈り」です。神さまに祈ることです。今週も、教会のリーダーたちのために、また行政のリーダーたちのために祈りましょう。        (吉持日輪生)