ユダヤ人以外に語らなかった理由2018年04月01日


「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んでいったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。」               使徒の働き11章19節

迫害によって各地に散らされたキリスト者たちが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかったという記述が19節後半にあります。直前の使徒の働き10章から11章では、異邦人に対して宣教の扉が開かれる場面が書かれているので、なぜユダヤ人以外には福音を語らなかったのか不思議に思うかもしれません。アンテオケの人口の約10パーセントを占めていたと言われる、2万5000人のユダヤ人に対する宣教を、戦略的に優先させたという解釈もできるでしょう。しかし、ユダヤ人以外に語らなかった理由として、文化も価値観も全く異なるギリシヤ人に宣教し、教会の一員として受け入れていくことに大きな壁があったことは容易に想像できます。

上の表は、ユダヤ人とギリシヤ人の違いについて整理したものです。律法中心に生きていたユダヤ人にとって、唯一の神を知らず、律法とは全く無関係であるギリシヤ人と一緒に何かをする、ましてや食事を共にするのも大変でした。実際にペテロは、11章3節において割礼派のクリスチャン達から、コルネリオの家で食事をしたことを非難されています。当時の教会は、使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていましたから(使徒2章42節)、同じ生活スタイルや価値観で生きている人々の方が、ストレス無く、関わることができました。私たちも生活や価値観が大きく異なる方々を、教会に招くことの難しさを覚えます。時には、クリスチャンの生活や価値観が、宣教の壁になることがあるでしょう。しかし、神さまのみこころは、ある人々の行動をきっかけにして、ギリシヤ人に対する驚くべき宣教の働きが進んでいくことでした。(笠川路人)

幾人かから始まった宣教2018年04月08日

「ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。」 使徒の働き11章20節

迫害によってアンテオケに逃げて来た人々は、ユダヤ人以外の者には誰にもみことばを語らなかった(19節)とありますが、ここで予想外の事態が起こることとなります。キプロス人とクレネ人の幾人かが、主イエスのことをギリシヤ人に語りかけ、大ぜいの人がイエス・キリストを信じるリバイバルが、アンテオケの教会に起こります。キプロスとは、アンテオケから100キロほど離れた地中海に浮かぶ島であり、クレネは現在の北アフリカのリビアの地方の呼び名だと言われています。恐らく、彼らはユダヤ教への改宗者か、聖書の神を恐れ敬う異邦人の中から、救われた人々であったと想定できます。20節の冒頭にある、「ところが」という表現から、エルサレム教会の中心メンバーや、アンテオケ出身の弟子たちではなく、キプロス人とクレネ人を通して、ギリシヤ人への宣教の扉が開かれたことは驚くべきことでした。19節には、「ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことば(ギリシヤ語でロゴス:ことば、メッセージ)を語らなかった。」とありますが、20節では、キプロス人とクレネ人の幾人かは、「主イエスのことを宣べ伝えた」とあります。聖書に精通するユダヤ人に対しては、聖書の中に書かれている、イエス・キリストについてのみことばや預言について語ることが必要だったのでしょう。しかし、聖書の背景を持たないギリシヤ人に対しては、イエス・キリストがどのような方であるか、そのままを宣べ伝え(ギリシヤ語でユーアンゲリオン:良い知らせを宣言する)、証ししたことが分かります。2000年前でも、21世紀の現在も、宣教とは主イエスがどんな方であるかを宣言することであり、主イエスが私たちの人生に何をしてくださったかを語ることです。幾人かの宣教への思いと具体的な行動に対して、主の御手が働いて下さり、大きな宣教のわざが進められて行く。時には、人間にとって思いもよらない方法で、宣教の扉が開かれることが起こります。アンテオケの教会の始まりから私たちが学ぶことができる大切な教えです。(笠川路人)

バルナバの派遣2018年04月15日

この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。                     使徒の働き11章22節

キプロス人とクレネ人による宣教によって、大ぜいのギリシヤ人が救われ、教会のメンバーとなりました。恐らく、何十人の単位ではなく、何百人という救われたギリシヤ人が教会に押し寄せて来ました。この大ニュースがエルサレムの教会と使徒たちのもとにすぐに報告され、エルサレム教会はすぐさまバルナバをアンテオケに派遣します。バルナバはキプロス生まれのレビ人(祭司職の家系)と使徒の働き4章36節に紹介されていますから、アンテオケ教会における信者となったギリシヤ人に対するお目付け役、もしくは監視役として派遣されたのではないかと想像できます。バルナバの受けたミッションは、「同郷出身の人々が始めた働きがとんでもないことになっているから、現地調査をして、収束させてから、後で報告しなさい。」といった感じでしょうか。しかし、バルナバがアンテオケに到着するやいなや、彼は「神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。」(使徒の働き11章23節)とあるように、ギリシヤ人たちの回心を喜び、信仰を励ましたとあります。ギリシヤ人の背景や文化を持つ人々が、ユダヤ人とユダヤ教への改宗者を中心とする教会の一員に加わっていくことには多くのチャレンジがあったでしょう。まだ信者となっていない家族との関係、変えなければならない過去の生活習慣、そして、教会内における価値観や文化の違いによるつまずき。バルナバはそのような新たなチャレンジや違いに戸惑うギリシヤ人に対して、イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストを信じ続けるように励ましました。教会に導かれるお一人おひとりの存在を心から喜び、信仰を励ましていくことは、私たちがバルナバから学ぶことができる信仰者としてのあるべき姿です。そして聖霊と信仰に満ちている(11章24節)バルナバの存在によって、さらに大ぜいの人がアンテオケ教会においてイエス・キリストを信じることになります。次回はバルナバがどのような人であったかについて見ていきましょう。(笠川路人)

バルナバの人物像2018年04月22日

彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。                     使徒の働き11章24節

キプロス人とクレネ人による伝道から始まったアンテオケ教会の宣教は、バルナバの働きによって、さらなる祝福を受けることになりました。立派な人物であり、聖霊と信仰に満ちている人であったと、素晴らしい評価をされたバルナバは、いったいどんな人だったのでしょうか。バルナバが最初に登場するのは使徒の働き4章36節です。彼は祭司の家系であるレビ族に生まれ、元々はヨセフという名前でした。しかし、その性格と人柄から、使徒たちから「バルナバ(慰めの子)」と名付けられ、呼ばれるようになったことが分かります。「慰め」という単語は、「言葉を持って勧め励ます」という意味もあり、バルナバが人々を励ます賜物を持って活躍していたことが想像できます。使徒の働き6章ではステパノやピリポを始めとする、使徒以外の7人のリーダーが選ばれますが、7人に先んじて、バルナバが4章の終わりで紹介されているのは注目すべきことでしょう。人を慰め、励ます賜物を持つバルナバは、話をしっかりと聴くことが出来る人物でもありました。9章において、回心したサウロ(後のパウロ)が、弟子たちの仲間になかなか入れずにいたところに、助けを差し伸べたのがバルナバでした。「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。」(使徒の働き9章27節)「引き受ける」という単語は、「しっかりと握る、掴む」という動作を表しています。つまり、バルナバはサウロを受け入れ、彼の話をじっくりと聴き、その回心と信仰が本物であることを確認し、使徒たちにその内容を細かく説明しました。そのような人物であったバルナバですから、アンテオケの教会においても大いに用いられ、結果として、大ぜいの人が主に導かれる(24節)ことになりました。新しい弟子にあふれるアンテオケ教会を見た時、バルナバが弟子たちの教育のために選んだパートナーは、自らが引き受け、教会の一員となったサウロでした。次回はアンテオケ教会において実施された、バルナバとサウロの最強タッグによる弟子教育について紹介します。(笠川路人)

バルナバとパウロの教会教育 12018年04月29日

彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。                    使徒の働き11章26節

アンテオケ教会の急速な成長を見たバルナバは、サウロ(パウロ)を探しにタルソまで旅に出ます。なぜバルナバはパウロをアンテオケ教会の牧会のパートナーとして選んだのでしょうか。パウロは聖書や律法について最高の教育を受けた人であり、この時点で既に6年の宣教師キャリアを持ち、かつ、ローマ帝国の法律の保護下に入り、被選挙権と選挙権を有するローマ市民権を持っている人物でした。勿論、ギリシヤ文化の影響を強く受けたタルソ出身のユダヤ人であったパウロは、ユダヤ人とギリシヤ人の両方に対して宣教し、牧会をすることが出来る人でした。ローマ属州のシリヤの首都であったアンテオケで、急激に成長する教会にとって、パウロの存在は心強く、大きな励ましになったことでしょう。バルナバとパウロは1年の間、アンテオケの教会に集まり、大ぜいの人たちを教えました(26節)。当時の教会における教会教育はどのようなものだったでしょうか。最初の教会である、エルサレム教会での使徒や弟子たちの様子(使徒の働き2章42-47節)から、以下の4つの内容を想定することができます。(1)イエス・キリスト自身の教えや、イエス・キリストの生涯、その死と復活について、聖書の記述と使徒たちの証言による教えを分かち合う、(2)食事を共有することも含めた交わり、(3)食事の中においてなされる聖餐式、(4)賛美と執り成しの祈り。「教える」という表現は、学校での講義形式の学びを想像しがちですが、当時のアンテオケ教会においては、知識を蓄える学びだけではなく、食事の交わり、聖餐式、そして賛美と祈りが含まれる実践的な内容であったことが分かります。つまり、教会での教育は、単に座学だけではなく、信徒同士の生きた交わり、祈りと賛美が捧げられる礼拝、そして主イエス・キリストを覚える聖餐式といった内容を実際に体験していくことで実現していくのです。1年の間、バルナバとパウロと共に教会に集い、交わり、教育と訓練を受けた人々はアンテオケで初めて「キリスト者」(クリスチャン)と呼ばれることとなります。次回は「キリスト者」という言葉とその定義について詳しく見ていきましょう。(笠川路人)