バルナバとパウロの教会教育 12018年04月29日

彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。                    使徒の働き11章26節

アンテオケ教会の急速な成長を見たバルナバは、サウロ(パウロ)を探しにタルソまで旅に出ます。なぜバルナバはパウロをアンテオケ教会の牧会のパートナーとして選んだのでしょうか。パウロは聖書や律法について最高の教育を受けた人であり、この時点で既に6年の宣教師キャリアを持ち、かつ、ローマ帝国の法律の保護下に入り、被選挙権と選挙権を有するローマ市民権を持っている人物でした。勿論、ギリシヤ文化の影響を強く受けたタルソ出身のユダヤ人であったパウロは、ユダヤ人とギリシヤ人の両方に対して宣教し、牧会をすることが出来る人でした。ローマ属州のシリヤの首都であったアンテオケで、急激に成長する教会にとって、パウロの存在は心強く、大きな励ましになったことでしょう。バルナバとパウロは1年の間、アンテオケの教会に集まり、大ぜいの人たちを教えました(26節)。当時の教会における教会教育はどのようなものだったでしょうか。最初の教会である、エルサレム教会での使徒や弟子たちの様子(使徒の働き2章42-47節)から、以下の4つの内容を想定することができます。(1)イエス・キリスト自身の教えや、イエス・キリストの生涯、その死と復活について、聖書の記述と使徒たちの証言による教えを分かち合う、(2)食事を共有することも含めた交わり、(3)食事の中においてなされる聖餐式、(4)賛美と執り成しの祈り。「教える」という表現は、学校での講義形式の学びを想像しがちですが、当時のアンテオケ教会においては、知識を蓄える学びだけではなく、食事の交わり、聖餐式、そして賛美と祈りが含まれる実践的な内容であったことが分かります。つまり、教会での教育は、単に座学だけではなく、信徒同士の生きた交わり、祈りと賛美が捧げられる礼拝、そして主イエス・キリストを覚える聖餐式といった内容を実際に体験していくことで実現していくのです。1年の間、バルナバとパウロと共に教会に集い、交わり、教育と訓練を受けた人々はアンテオケで初めて「キリスト者」(クリスチャン)と呼ばれることとなります。次回は「キリスト者」という言葉とその定義について詳しく見ていきましょう。(笠川路人)

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