20140504 説教者としての試み -神学生時代後半(千葉県印西市)そして茨木聖書教会伝道師-2014年05月04日

「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。      エレミヤ書20章9節

神学校3年目の春は、学校の移転(東京都国立市から千葉県印西市へ)があり、環境も、建物も、寮も新しくなりました。また4年目は、それまでの「短期大学」から「4年制大学」になるという過渡期のため、通常であればほぼ全員が「専攻科」に進むのですが、全員が行けなくなり、私は同じキャンパス内にある「共立基督教研究所」に進学し、4年目を過ごしました。
神学校には卒業前数ヶ月をかけてひとりひとりがチャペルで説教をする「卒業チャペル」という伝統があります。しかし私は卒業ではなかったためチャペルでの説教をすることなく神学校を離れました。ちなみに家内は専攻科に進み、卒業チャペルも行ないました。思い返すとこの時から説教者としての試みが始まっていたのでしょう。伝道師時代、この教会の講壇に立てたのは3年間で3回。4回目は昨年の献堂20周年記念礼拝です。神学校の講壇に立てたのは入学して25年後と、思い入れのある講壇でなかなか語らせてもらえない試みを経験してきました。
そのような経験をさせてもらえたからこそ、上記のみことばにあるように私の内で「燃えさかる火のように」なった主のみことばを、語る機会があるならば語れる間に何度でもと思わされるようになりました。前の教会から考えると2005年より主日に3回説教をしてきていますが、体力は別にして、気持ちの上では5回でも6回でも、いや聖書的数字として7回でも礼拝の中で説教を語りたいと思わされています。茨木聖書教会の主の日が、いつ行っても礼拝が献げられ、説教を聞くことができる。そのような教会になるのも良いのではないでしょうか。

20140511 動き出した3年間-茨木聖書教会伝道師時代-2014年05月11日

 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。           使徒の働き4章31節

茨木聖書教会伝道師3年間の思い出は「新会堂(現会堂)建築」です。20年前のことで私の記憶も覚束ないため「新教会堂献堂記念誌、Ⅵ建設経過報告(西田忠一兄執筆、p28)」を確認してみました。そこには「1991年4月神様は水尾に会堂建設のための土地(250坪)を示され」とあります。私が伝道師に就任したのは、まさに1991年4月です。笠川徹三先生とまだ田んぼであった現会堂用地を見に来たことを思い出します。また記念誌は「1991年5月26日総会にて購入を決議いたしました」とあり、さらに「1992年5月31日新会堂建設を総会で決議」「1993年7月18日献堂式」と続きます。つまり伝道師1年目の4月に土地が紹介され、5月に購入決議、伝道師2年目の5月に建設決議、そして伝道師3年目の7月が献堂です。1986年に南春日丘の候補地を具体的に検討して以降、なかなか進まなかった会堂建築が、動き出した3年間でした。
近年私の父は、「自分は神さまから移転の役割をよく担わされてきた」と述懐します。茨木聖書教会の会堂を稲葉町13番から稲葉町12番へ移転させ、神学校を東京都国立市から千葉県印西市に移転させ、教団事務所を世田谷区豪徳寺から渋谷区幡ヶ谷へと移転させ、いのちのことば社を新宿区信濃町から中野区中野へと移転させたことを言っているようです。
もし神さまが私には「動き出す使命」を与えてくださっているとするならば、今回も茨木聖書教会において「動き出す使命」を果たしたいと思わされています。もちろんそれは私だけが「動き出す」ことではありません。教会に連なるひとりひとりが、神さまから与えられている使命をもって動き出すことです。神さまがあなたに与えておられるできること、または志しを、神さまから与えられた一つの使命と覚え、共に動き出しましょう。

20140518 教会の価値-高麗聖書教会牧師時代-2014年05月18日

 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」               出エジプト記33章19節

1994年3月末茨木聖書教会を離れ、埼玉にある高麗(こま)聖書教会に赴任しました。そこには1990年に献堂した新しい礼拝堂と十数名の群れがありました。その当時の教会の痛みは、11年間洗礼者が起こされていないという現実でした。信徒は、その理由を牧師に求め、牧師は信徒に求めるという状況で、牧師と信徒との歯車がうまく噛み合っていませんでした。
神さまはこの時も「動き出す」恵みを注いで下さり赴任した夏に洗礼者が与えられ、その後ほぼ毎年洗礼者が与えられました。このことを経験して教えられたことは、「救い」は私たちの努力や熱心さではなく、神さまの御業だということです。私の前の先生も精一杯伝道牧会に励んでおられましたし、信徒の方々も本当に良く祈り、良く献げ、良く伝道をされていました。けれども11年間受洗者が起こされなかったのです。その理由は、牧師でもなく、信徒でもなく、神さまです。ですから受洗者が起こされているから良い教会で、起こされていないから良くないということはありません。受洗者が起こされても起こされなくても一つ一つの教会は、キリストのからだなる教会として尊いのです。それは礼拝者の人数も同じです。茨木から高麗に赴任した時、礼拝者の数が茨木の10分の1になる中、礼拝者の数で教会の価値を区別していた自分に気付かされ悔い改めました。洗礼者の数も、礼拝者の数も、全て神さまの御業です。ちょうど人の身長や体重の違いと同じです。私たちは人の価値を背の高さや、重たさで判断せず、ひとりひとりを神さまに似せて造られた尊い存在として見ます。同じように教会も、洗礼者の数、礼拝者の数に関係なく、一つ一つが尊いキリストのからだなる教会です。ですから私たちの喜び、私たちの誇りは、ただ一つ、その尊いキリストのからだに連なっていることのみです。そのことを共に喜びましょう。

20140525 出会いの大切さ-高麗聖書教会牧師時代②-2014年05月25日

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。    伝道者の書3章11節

高麗での20年間は、ある男性との出会いが大きく影響しました。その男性のことをG兄と呼ばせていただきます。1994年赴任3日目の夕方、教会の呼び鈴が鳴り玄関に降りて行くと、そこにいたのは、今まで経験したことのない異臭を放ち立っている真っ黒な顔のGさんでした。彼は私に「カップラーメンを買うから」とお金を求めてきました。私はお金は渡さない方針でしたので、要求金額を50円まで下げてもお金は渡しませんでした。そんな私にGさんが吐き捨てたことばは「お前なんて大阪に帰れ」でした。けれどもこの出会いからGさんと私たち、そして教会との麗しい歩みが始まりました。
教会の方々の勧めと協力で、Gさんに教会内の色々な仕事をお願いし、その御礼としてお金を渡すようになりました。1995年1月にはGさんが寒くても、雨でも仕事ができるようにと敷地内にプレハブが建てられました。それでも最初の3年間は、暖かくなると放浪に出てしまう状況が続きましたが、1997年夏、四苦八苦しながらGさんにアルコール専門病棟に入院してもらい、退院後は病院からのアドバイスに従い、教会内で生活をするようになりました。そのころからGさんは、お酒を断ち、教会内で作業をする日々を過ごしています。
実は、Gさんは高麗生まれの有名な地元密着型浮浪者でしたので、あのGさんが教会で穏やかな日々を過ごしていることは、地域の方々が教会を受け入れ、私たちを受け入れてくれる大きな要因となりました。
G兄は今年60歳になります。20年前、異臭を放ち、真っ黒な顔をした男性を拒否していたら今のG兄も、また福祉に関心を持つ私たちも存在していなかったと思うと、出会いの大切さ、すばらしさを覚えます。ですから今は、茨木聖書教会の方々との再会と新しい出会いを楽しみにしつつ、神さまのすばらしい御業に期待しながら日々過ごしています。