20130106 神様は誠実を愛される2013年01月06日

「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。」 箴言12章22節

 モーセの十戒の第9番目に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」とあります。これは嘘をついてはいけないと言うことであり、誠実であれと言うことです。神様が私たちに求めておられることの一つは誠実であることです。なぜ嘘をついてはいけないのでしょうか。その理由の第一は、それは神様を侮ることだからです。私たちが嘘をつくとき、あたかも神様は何も分かっていないかのように、神様を侮っているのです。上記の聖書箇所にあるように、神様は嘘を嫌われます。私たちが嘘をつくとき、私たちの嘘を知っているふたりの人物がいます。それは私自身と神様です。
 第二に、他の人を傷つけることになるからです。聖書に「目くばせする者は人を痛め」とあります。つまり嘘は他の人との間に問題を引き起こします。そして他の人を傷つけ、怒らせ、不信や憎しみを抱かせることになるからです。ある雑誌の調査で、「友人に何を求めるか、とりわけひとつの性質を選ぶとしたら何を選ぶか」というアンケートを取ったとき、ほとんどの人が誠実と答えたそうです。私たちが決してしてはいけないことは、面と向かって言うことと、その人がいないところで言うこととが違うことです。これは中傷という嘘になります。
 第三に、自分の人格を台無しにするからです。聖書に「正しい人は誠実に歩み、悪人は不正直なために破滅します」とあります。聖書ではサタンは嘘の父であると言います。私たちが嘘をつき続けるとき、サタンのようになっていくと言うのです。嘘は人間関係を壊し、信頼を揺るがせます。嘘をつく人は信用を失い、良い家庭生活を築き上げることができません。また仕事においても良い結果を見ることはできません。詩篇34篇12節,13節に目を留めましょう。「いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。」

20130113 祈りの聞き手はだれか2013年01月13日

「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。」     マタイの福音書6章5~6節

 聖書の民ユダヤ人ほど祈りについて熱心な民は他に例をみません。どの宗教と比べても最も祈りを重んじる民であると言えます。朝早く起きて、「聞け、イスラエル、私たちの神、主は唯一の主である。」という言葉から始まり、定まった旧約聖書の箇所から引用して祈りをささげるのです。夕べにも同じ祈りをささげるのです。また一日の中でも9時、12時、15時と3度、仕事場でも、家でも、旅の途中でも、どこにいても、祈りの時間が来ると立ち止まり祈り始めるのです。さらに生活のいろいろなことのためにも定型化された祈りの言葉が作られ、祈りが実践されたのです。
 しかしイエス様は当時のユダヤ教の指導者たちの祈りを厳しく批判されたのです。イエス様が指摘された彼らの問題点は、祈りの聞き手はだれかと言うことでした。彼らは人に見られたくて、人々がたくさん集まるところで祈ることを好んだのです。大きな通りの四つ角はたくさんの人々が行き交う場所です。宗教指導者たちは、祈りの時間に合わせてその四つ角にやってきて、熱心に祈りをささげるのです。彼らは人々に見られたくて、また聞かれたくて祈りをささげるのです。その祈りは神様に向けられたものではなく、人々に向けられ、人々から賞賛を受け、自らに焦点を合わせた祈りになってしまっていたのです。これほど偽善的な祈りはありません。祈りの聞き手は神様です。神様にのみ焦点を合わせるべきものです。祈りにおいて、周りの人や自分自身を意識するとき、その祈りは偽善になってしまうのです。イエス様は奥まった部屋で祈りなさいと弟子たちに教えられました。その意味は、たとえ公での祈りであっても、祈るときにはただ神様のみに焦点を合わせて祈るべきであることを教えられたのです。祈りという最も聖なる神様との交わりの中で、偽善という罪の誘惑が起きていることを覚えましょう。

201301202013年01月20日

宝を天に
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」
 マタイの福音書6章19~20節

 聖書は財産を持つことを否定していません。将来のために備えることは賢明なことです。子どもたちの教育資金、老後の備えなど、また自立した経済生活を営むために資金をたくわえることは大切なことです。イエス様が上記の聖書箇所で警告していることは、自分のことのみに焦点を合わせて富を築き上げることです。
イエス様のたとえ話に「金持ちの農夫」の話があります。彼の畑が豊作で作物をたくわえておく場所がありません。そこで彼はもっと大きな倉を建て穀物や財産をみなそこにしまっておこうとします。その上で、自分のたましいに言うのです。「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」しかし神様は彼に言われるのです。「愚か者。おまえのたましいが今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」このたとえ話のポイントは、金持ちの農夫がただ自分のことだけしか考えていないことです。他の人の必要のために分かち合うことや、祝福してくださった神様に一部をお捧げして感謝を表すことなど少しも考えていないことです。彼は積み上げた富をただ自分のことだけに用いようとしたのです。
イギリスの伝道者ジョン・ウェスレーはたいへん有名な説教家でした。彼の説教集は多くの人々に読まれ、その売上げによって彼は多額な収入を得ていました。しかし彼が亡くなったとき、彼の手元に残されたお金はたった28ポンドだったというのです。彼は得た収入の大半を神様の働きのために捧げていたのです。自分の宝を天にたくわえるとは、神様によって与えられた富を、自分のためにだけに用いるという自己中心的な生き方をするのではなく、他の人の必要のために、とりわけたましいの救いのために用いることなのです。

20130127 心配しないで神様に拠り頼む2013年01月27日

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」                 マタイの福音書6章25節

 イエス様は上記の聖書箇所で「心配するな!」と私たちに語っておられます。当時の人々は食べること、飲むこと、着ることに苦労していました。物で満ち溢れる現代社会に生きる私たちにとって、このメッセージをそのまま受け入れることはなかなか難しいことです。今私たちが何を食べようかと言うとき、それはいろいろなメニューの中からどれを選択するかということです。イエス様の時代のパレスティナでは、しばしば雨量が少なくなることがありました。そうすると、飲み水に困り、作物の収穫に影響し、その結果着るものを手に入れることも難しくなったのです。「心配するな!」というメッセージは、人間が生きていく上で必要不可欠な食べ物、飲み物、そして着る物を手に入れることが困難な状況に置かれていた人々に対して語られたのです。
 イエス様は心配に打ち勝つためには神様に目を向けることだと教えています。私たちが神様について次の3つのことを覚えるとき、心配から解放され真の満たしと平安を得ることができるのです。第一に、神様はすべてのものを所有しておられることです。聖書に「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」とあります。私が持っているものも、すべては神様の所有物なのです。第二に、神様はすべてのものを支配しておられることです。どんな状況の中に置かれていても、私たちの天の父である神様が愛の御手をもって支配しておられ、最善に導かれるのです。第三に、神様はすべてのことを備えるお方であることです。聖書に「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあります。私たちは地上の物に心を囚われていくとき、心配し思い煩うものです。しかし神様に目を向け、より頼むとき、心配が取り除かれるのです。