20121202 悪い者に手向かうな!2012年12月02日

「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」  マタイの福音書5章38~39節

 上記のイエス様のお言葉はたいへん有名です。この言葉を知らない人はいないほどです。なぜイエス様は「悪い者に手向かってはいけません」と言われたのでしょうか。その真意は何なのでしょうか。イエス様の要点は「復讐してはいけない」ということです。「目には目で、歯には歯で」とは、旧約聖書の律法の中に記されている言葉です。この律法の目的は、第一に犯罪の抑止のためです。他の人を傷つければ、同じ傷をもって罰せられるというものです。第二に過剰な復讐に対する抑止です。被害者は加害者に対して怒りから何倍にもして仕返しをする傾向があります。これを抑止するためにこの律法が定められたのです。また旧約聖書の律法には個人的な復讐を禁止し、公の裁きを定めてもいます。より客観的な判断が求められているのです。
 イエス様の時代、律法の専門家たちはこの律法を、個人的な復讐を果たすための許可証のように解釈して教えていました。しかしイエス様は、神様の国に属する人々は、より高い神様の正しさを求めて生きるべきことを教えたのです。「悪い者に手向かってはいけません」とは、他の人から個人的に害を受けたとき、怒りに駆られて、その人に復讐するなと教えられたのです。昔ユダヤにおいて頬を打たれることはたいへんな侮辱であり、不名誉なことでした。それは人が持っている尊厳を失わせる行為でした。しかしイエス様はそのような辱めを受けたとしても、怒りをもって反応をするのではなく、謙遜な、穏やかな態度で左の頬を出してあげなさいと言われたのです。
 イエス様の救いをいただき、神様の子とされ、神様の家族の一員とされた者は復讐するのではなく、悪に対して善を持って対応することに召されているのです。これは自分の力ではなく、神様の力に頼らなければ到底できないことです。

20121209 自分の敵を愛する2012年12月09日

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』」            マタイの福音書5章43~44節

 神様の正しさの基準は私たちが思う以上に高いものです。上記のイエス様の言葉にそのことが良く表されています。当時の宗教家たちは、人の力で実行できるようにと神様の基準を人間的なレベルに引き下ろし、自分たちは神様の戒めを忠実に守っていると自画自賛したのです。しかしイエス様は、神の国に属する者に神様が求めておられる相応しいあり方をはっきりと教えられたのです。隣人愛は自分にとって親しい人々に実践されるだけでなく、たとえ自分の敵であっても隣人として実践すべきなのです。これは自分の力でできることではありません。神様の力をいただかなくてはできないことです。
 上記の「自分の隣人を愛し」とは旧約聖書の中に教えられています。レビ記19章には「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とあります。さらに出エジプト記23章には「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」とあります。ダビデは詩篇35篇で、彼に悪を行う人が病になったとき、彼が荒布に着替えて、断食して、心を痛めてその人のために祈ったと記しています。また自分の友、兄弟、母に対するように泣き悲しんだとも記しています。
 ダビデは自分の敵さえも愛せよという神様の戒めを良く心得ていた人でした。ダビデのエン・ゲディのほら穴での出来事はその例です。ダビデたちがサウル王様に追われて、ほら穴に隠れているとき、たまたまそのほら穴にサウル王様が一人で無防備で入ってきたのです。ダビデの部下たちは神様が与えたチャンスとして殺害を進言しましたが、彼はサウル王様を見逃したのでした。ダビデがサウル王様を憎む理由は数多くありました。しかしダビデは悪に対して善をもって答えたのでした。
 神様の御心は自分の敵であっても、自分の家族、また友のように愛することです。

20121216自分の敵さえも愛する大きな愛2012年12月16日

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」              マタイの福音書5章43~44節

 イエス様のたとえ話に「良きサマリヤ人」の話があります。それは次のような話です。ユダヤ人が旅の途中で強盗に会い、着物をはぎ取られて、半殺しの目に合うのです。そのとき、同胞のユダヤ人の宗教家である祭司とレビ人がそれぞれその場に通りかかるのです。しかし彼らは見て見ぬ振りをして通り過ぎて行ってしまうのです。そこにユダヤ人と敵対しているサマリヤ人が旅の途中に来合わせるのです。彼は傷ついたユダヤ人を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行くのです。宿屋の主人にお金を渡して「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」と言うのです
 このたとえ話は、ある律法の専門家が「私の隣人とは、だれのことですか。」とイエス様に質問したことから語られました。当時の宗教的指導者たちは「隣人とはだれか」と隣人の範囲を定めたのです。上記の聖書箇所にあるように、聖書の教えである「自分の隣人を愛し」に「自分の敵を憎め」を付け加えて、隣人の範囲を狭く解釈し、真の愛を歪めてしまったのです。イエス様は、神様が私たちに求めておられる愛は、すべての人に及ぶこと、たとえ敵であっても、その人が助けを必要としているならば、私たちの隣人となることを教えたのです。
 たとえ話に登場する良きサマリヤ人は、自分の都合を脇におき、大きな犠牲を払って、敵対するユダヤ人に仕えたのです。私たち人間の傾向は常に魅力的な人、好ましい人、自分にとって価値がある人に対して愛が向けられるのです。しかし真の愛は人の必要から始まるのです。イエス様は私たちがまだ罪人であったとき、救いを必要とする私たちのために十字架で死んでくださり、救いを成し遂げてくださったのです。私たちの心にもイエス様の真の愛が注がれる必要があります。

20121223 偽善に気をつけなさい2012年12月23日

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」 マタイの福音書6章1節

 上記の聖書箇所は、イエス様が偽善に気をつけることを教えているところです。偽善者という言葉は、新約聖書が書かれたギリシャ語で俳優を意味します。俳優は仮面を被り舞台でその役を演じる人のことです。偽善者とは演技をしている人のことです。すなわち本当の姿を隠して仮面を被り、別の人になりきって演技をしているのです。当時の宗教家であるパリサイ人や律法学者たちに対して、イエス様は「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」と厳しく彼らの偽善を非難されました。
 偽善の問題は何を目的として行動しているかにあります。たとえ良い行いであったとしても、それが人に見せるためであったり、人にほめられたくてしたりするとき、偽善に陥ることになるのです。イエス様は偽善について警告した後で、具体的な例を取り上げています。それは施しです。他の人が困っているとき、その必要を満たすために、愛の心から助けを与える場合です。もしその良い行いが、自分自身への名誉や賞賛のために行われるなら、その行為は真の施しにならないとイエス様は指摘しているのです。神様は、神様を愛する人々が大いに施す人になって欲しいと願っています。しかしその施しにおいて、自分の名を高く上げるためにするなと言われるのです。ポイントは目的です。自分は何のために行っているのかを吟味することです。
 有名な作曲家バッハは教会音楽に大いに貢献した人です。彼が作品を書き終えたとき、その最後の部分に、「ただ神様のみがあがめられるように」と記したと言われています。偽善に陥らないためには、「神様のみがあがめられるように」という明確な目的を持つことです。ある人がこう言いました。「私たちが自分のしたことを覚えているとき、神様はそれを忘れ、私たちが自分のしたこと忘れたとき、神様がそれを覚えている。」と。偽善に陥らないためには謙遜であることです。本当に謙遜な人とは施しをした後で「私たちはなすべきことをしただけです。」という人です。

20121230 神様への感謝にあふれる2012年12月30日

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」            エペソ人への手紙5章20節

 「神様は私たちに何を求めておられるか」という問いに対してあなたは何と答えるだろうか。たくさんのものを求められたら、どうしようかと心配するかもしれません。しかし神様は必要があって私たちに何かを求められることはない。私たちにはたくさんの必要があるが、神様には必要としているものなど何一つない。神様はすべてのものを所有しておられるお方であるからです。
 では神様が私たちに求めておられるものは何でしょうか。それは神様にたくさんの感謝を表すことです。上記の聖書箇所に言われているように、神様は私たちがいつでも、またすべてのことについて神様に感謝することを願っています。しかし現実にはそうではありません。私たちは持っているものについて感謝することはできますが、持っていないものについて不平不満を漏らしてしまいます。他の人があれもこれも素晴らしいものを持っていると、うらやましく思い、自分は何も持っていないと落ち込んでしまいます。私たちは持っていないものを一つ一つ数えてがっかりするか、それとも有るものを数えて感謝にあふれるかを選択することになります。もちろん有るものを数えて感謝する方がはるかに幸せです。
 イギリスの有名な牧師であったジョン・ウェスレーはある夜泥棒に入られたことがありました。その後で彼はこう祈ったと言うのです。「神様、あなたにまず感謝をささげます。それは私がこれまで決して泥棒ではなかったことです。第二に感謝することは、泥棒が私の財布を盗んでいきましたが、私のいのちを取らなかったことです。第三に、彼は私のすべての物を盗んでいきましたが、それが多くはなかったことです。第四に、感謝することは、盗まれたのが私であり、盗んだのが私でなかったことです。」
 私たちは神様に感謝すべきことがたくさんあります。この一年を振り返りながら、ここまで歩みを続けることができたのは神様の慈しみが私たちの上に注がれていたからです。神様に心から感謝いたしましょう。