20130113 祈りの聞き手はだれか2013年01月13日

「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。」     マタイの福音書6章5~6節

 聖書の民ユダヤ人ほど祈りについて熱心な民は他に例をみません。どの宗教と比べても最も祈りを重んじる民であると言えます。朝早く起きて、「聞け、イスラエル、私たちの神、主は唯一の主である。」という言葉から始まり、定まった旧約聖書の箇所から引用して祈りをささげるのです。夕べにも同じ祈りをささげるのです。また一日の中でも9時、12時、15時と3度、仕事場でも、家でも、旅の途中でも、どこにいても、祈りの時間が来ると立ち止まり祈り始めるのです。さらに生活のいろいろなことのためにも定型化された祈りの言葉が作られ、祈りが実践されたのです。
 しかしイエス様は当時のユダヤ教の指導者たちの祈りを厳しく批判されたのです。イエス様が指摘された彼らの問題点は、祈りの聞き手はだれかと言うことでした。彼らは人に見られたくて、人々がたくさん集まるところで祈ることを好んだのです。大きな通りの四つ角はたくさんの人々が行き交う場所です。宗教指導者たちは、祈りの時間に合わせてその四つ角にやってきて、熱心に祈りをささげるのです。彼らは人々に見られたくて、また聞かれたくて祈りをささげるのです。その祈りは神様に向けられたものではなく、人々に向けられ、人々から賞賛を受け、自らに焦点を合わせた祈りになってしまっていたのです。これほど偽善的な祈りはありません。祈りの聞き手は神様です。神様にのみ焦点を合わせるべきものです。祈りにおいて、周りの人や自分自身を意識するとき、その祈りは偽善になってしまうのです。イエス様は奥まった部屋で祈りなさいと弟子たちに教えられました。その意味は、たとえ公での祈りであっても、祈るときにはただ神様のみに焦点を合わせて祈るべきであることを教えられたのです。祈りという最も聖なる神様との交わりの中で、偽善という罪の誘惑が起きていることを覚えましょう。