20120930 あわれみ深い者の幸い2012年10月01日

「あわれみ深いものは幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」
                        マタイの福音書5章5節

 私たちは上記の幸いについての教えをしばしば誤解することがあります。私たちが他の人にあわれみ深く関わる時、その人も自分にあわれみ深くしてくれると解釈し、幸いになれると理解します。しかしイエス様の意図は違います。私たちが他の人にあわれみ深く関わる時、その人がどうであれ神様が私たちにあわれみ深くしてくださるということです。私たちはいつも自己中心な者です。あわれみ深くあることであってもいつも自分のためになることを考えて行動しているのです。
 イエス様は「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43,44)と言っています。神様は悪い人にも良い人にも太陽と雨を恵んで下さるお方です。私たちが自分を愛してくれる人を愛したからといって、何かまさっていることがあるでしょうか。イエス様は異邦人や取税人でさえ、すなわち神様から遠い存在とされている人々でさえ同じことをしているではありませんかと言っているのです。
 本当にあわれみ深くあるということは、たとえ他の人があわれみを示すのに相応しくない場合であっても、その人があわれみを必要としているとき、あわれみを示すことであり、そのような人が本当のあわれみ深い人であり、そのような人に神様はあわれみを与えてくださるというのです。
 地上で一番あわれみ深いお方はイエス様です。3年半におよぶ公生涯の中で、出会う人々に常にあわれみ深く接しました。しかし、イエス様はあわれみ深くあればあるほど、人々から批判され、攻撃され、ついに十字架にかけられ、非業の死を遂げられたのです。その十字架の苦しみの中でも、自分を苦しめ、あざけった人々のために祈られた姿の中にイエス様のあわれみ深さが表されています。イエス様に従う者もあわれみ深くあることです。

20121007 神様の視点に立つ2012年10月07日

「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」               ルカの福音書12章24節

 私たちは自分自身をどう見ているでしょうか。自分をどう見るかはとても重要です。その視点は自分自身の人生を作り上げていくからです。自分をできない者と考えるなら、その人は本当にできない者になっていくのです。また自分を情けない人間だと考えるなら、その人は本当に情けない人間になっていくのです。自分自身をどう見るかは私たちの人生を作り上げていくのです。
 さて上記聖書箇所はイエス様が私たちをどう見ておられるかを示唆しているものです。空の鳥は蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありませんが、神様は彼らを十分に養ってくださっています。イエス様は私たち人間が鳥よりもはるかに優れたものではないかと言っておられます。空の鳥でさえ、神様は十分に世話をしておられるのです。まして人間は神様のかたちに似せて造られた者です。神様は私たち人間を鳥以上に心配してくださり、助けと守りを与えてくださるのです。
 私たちの尊さは私たちが持っているもので測られるのではありません。また私たちが生み出すことができる利益によって測られるのでもありません。私たちの尊さは神様が私たちにどのような値を付けるかによって測られるのです。イエス様の十字架は神様が私たちをどれほどの代価をもって買い取ろうとしたかを示しているのです。神様は私たちを罪から救うために、ご自分の御子イエス様を惜しまずに死に渡されたのです。聖書は「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言うことによって、神様の目には私たち一人一人がどれほど高価で尊い存在であるかを示しているのです。
 私たちは私たちの視点を大きく転換するべきです。いままで幼いころから築かれてきた自分に対する視点を捨てて、神様が私たちをどう見ておられるかという神様の視点を自分の視点とすることです。それは私たちの人生を大きく変えていくのです。

20121014 一歩先を見る2012年10月14日

「それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。」 ローマ人への手紙15章28節

 使徒パウロは上記の手紙を書いたとき、エペソで働いていました。主イエス様がそうであるようにパウロは2つのことに集中して奉仕していました。一つは福音を宣べ伝えること、もう一つは救われたクリスチャンを教え励まし育てることでした。彼はエペソに長期間とどまり、多くの反対する人々に直面しながら、むしろ困難をチャレンジと受けとめてこれら2つの課題に焦点をあわせて働きを進めていました。
 さて、その働きの中で、パウロが一歩先を見ながら奉仕していたことに注目したいと思います。私たちも現在の働きに熱心に取り組みながら、同時に一歩先の計画を練り上げ、準備することをパウロから教えられる必要があります。私が注目したいことは、パウロがエペソで困難な戦いに従事しながら、彼がローマに行く計画と、さらにローマを越えてイスパニヤ(スペイン)に行く計画を立てていたことです。イスパニヤはローマ帝国の中でたいへん豊かな地域であり、大きな影響を与えている地域でもありました。ローマ皇帝を輩出し、また哲学者、政治家を多数生み出した地域でした。そしてまだ福音が宣べ伝えられていなかったのです。パウロは未伝地イスパニヤへの伝道の夢を描いたのでした。
 主イエス様のために働く奉仕者は未来のためのビジョンを持つべきです。これまで成し遂げてきた成果に満足することなく、まだ成し遂げられていない課題に対して積極的に取り組んでいく必要があります。まだ救われていない多くの人々が私たちの働きを待っているのです。また、救われた人々がもっと整えられて成長することができるために私たちの働きを待っているのです。私たちは一歩先のプランを考える必要があります。ウィリアム・カレーはイギリスの靴直し職人でしたが、仕事場の壁に世界地図を掲げて、仕事をしながら世界の様々な国々のために涙して祈っていました。やがて、彼はインドへの宣教師になり、近代宣教の道を切り開く人になったのでした。彼は一歩先を見る人でした。

20121021 恐れを取り除く2012年10月21日

「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」                        詩篇34篇4節

私たちはみな恐れを持っています。あたかも何も恐れが無いような振りをしていますが、だれもが恐れを持っているのです。大切なことはいかに恐れを扱うかを学ぶことです。聖書から恐れに対する処方箋について考えてみましょう。
 第一に、イエス様は「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われました。まず真理を知ることです。私たちが持つ恐れは経験から学んできたものです。それらの恐れはしばしば間違った情報から生じたものです。また偏見や誤解に基づくものが多くあります。聖書は私たちに神様について、自分自身について、また人生について真理を教えてくれます。私たちは聖書を通して真理を知り、恐れを取り除くことができるのです。
 第二に、聖書に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」とあります。恐れを取り除く第二の方法は神様の愛を私たちの人生に満たすことです。あなたの人生が恐れで満ちているなら、それはあなたが神様について良く知らないからです。聖書は「神様は愛です。」と語っています。愛は恐れよりも強いのです。イエス様の十字架の死は愛が恐れよりも強いことを示しているのです。イエス様は私たちを罪とその滅びから救うために命を投げ出してくださいました。イエス様の十字架の出来事の中に神様の愛が示されているのです。
 第三に、神様への信仰を持つことです。信仰は私たちがたとえどのような恐れの中に置かれたとしても、私たちに勇気を与え、前進する力、戦うエネルギーを与えてくれます。あなたの人生の恐れを取り除くために信仰が必要です。
 恐れを取り除く真理、愛、信仰はどのようにして手に入れることができるのでしょうか。それは神様をもっと知ることです。神様を知れば知るほど、私たちは真理を知ることになります。また神様の愛と神様への信仰を人生において得ることになるのです。その結果恐れから解放されるのです。

20121028 苦難の中で神様を信じる2012年10月28日

「そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」 ヨブ記1章21節

 旧約聖書に出てくるヨブという人物は人生に大きな苦難を受けた人です。彼の体験は人生の危機に直面する人にたくさんの気づきを与えてくれます。ヨブは神様を信じ、しかも注意深く信仰生活を送っていた人でした。彼は10人の息子と娘に囲まれ幸せな生活をしていました。またおびただしい羊、牛などを所有し、その地域随一の富豪と言われていました。その彼が自然災害や他国人の略奪隊によって、一瞬にして子どもたちを含めてすべてを失ってしまうという経験をしたのです。さらに不幸は重なって彼自身も足の裏から頭のてっぺんまで悪性の腫物で覆われてしまったのです。その悲惨の中で最愛の妻までもが「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」と彼をののしったのです。
 人はいったいこのようにすべてを失う中でも神様を信じることができるのでしょうか。この問いこそがヨブ記の主題です。上記の聖書箇所は大きな苦難の中でヨブが語った言葉です。この言葉からいかにしてヨブが人生の危機の中で神様とともに歩み、また神様を信じ通したか、そして危機を乗り越えて行ったかを考えてみましょう。
第一に、ヨブは神様が善と愛に満ちたお方であると信じたことです。たとえどんなことが起こったとしても神様は私たちを愛しておられることを信じたのです。第二に、神様が彼の人生のすべてを知っておられ、彼のためにプランをお持ちであることを信じたのです。ヨブはこの苦難の中でこのようにも言っています。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ記23章10節)第三に、ヨブはすべてが神様の所有であり、私たちが地上で受けるものすべては神様からの賜物であることを知っていたことです。
 人生は谷あり山ありの連続です。人生における変化は不可避です。ヨブが信じた神様を私たちも人生の変化の中で信じていきたいと思います。