20121104 怒りを制し静めるために2012年11月04日

「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。」   箴言29章11節

 最近の出来事に、狭い道をはさんだ隣人の80歳代の男性が60歳代の女性を日本刀で殺害し、本人も自殺するという痛ましい事件がありました。男性は元警察官で、退職後も地域のためにいろいろ奉仕していたようです。二人の間には家の前に置いてあった植木のことで日ごろから争いが絶えなかったそうです。この男性は怒りをどう処理してよいか分からず、自分自身を制することができず、相手を殺害してしまったのです。このような殺人事件は互いに知り合っている中で一番多く起きているのです。私たちはいかにして怒りを制しまた静めることができ、気持ちを穏やかに保つことができるのでしょうか。
 怒りを内におさめるとは、すぐに反応しないで、すなわち怒りをぶちまけないで、少し待つことです。私たちは良く考えないですぐに感情的に反応しやすい者です。ですから、感情のコントロールを失って怒ると、多くのものを失ってしまうということを考えてみることです。怒りは人間関係を損なうものです。尊敬を失い、仕事を失うことにもなります。怒る前に支払うべき代価の大きさを良く考えてみることです。
 次になぜ私は怒っているのかを考えてみることです。怒りには理由があるのです。第一に、私たちは自分が傷つくときに怒りを発するのです。肉体的に、精神的に傷つくとき、怒りが生み出されてくるのです。第二に、自分の思い通りにならないときに怒るのです。私たちは自分ですべての事を支配したいと願っているのです。しかしこの世界の多くのことは私たちの支配の中にないのです。第三に、不安や恐れを持つとき、私たちは怒るのです。
 怒りへの究極的な解決はイエス・キリスト様と関わることです。聖書に「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」とあります。イエス様との関係の中にどっぷり浸かることを通して、あなたの心を神様の愛で満たしていただくことです。また恐れを取り除いていただき、傷が癒されていくことです。

20121111子どもをおこらせない2012年11月11日

「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」           エペソ人への手紙6章4節

 親が子どもをどのように扱うか、それには知恵が要ります。間違った取り扱いを継続していくとき、子どもの心の中に怒りが積み重ねられていくことになります。その結果、煮えくり返った鍋から吹き出すように、親に敵対する行動となって表れていくことになります。親として子どもに対してどのように知恵深く関わったら良いのでしょうか。
 まず、第一に過保護にならないことです。親として子どもがスムーズに生きて欲しいと願うことは自然なことです。しかし子ども自身ができる事、またすることを過度に制限したり、信頼しなかったりすることは子どもの中に怒りを生じさせる原因になります。子どもは導きや注意深い取り扱いを必要としていますが、同時に、自分で判断したり、決断することで成長を促される必要があるのです。
 第二に、依怙贔屓(えこひいき)することを避けることです。私たちはよく比較するものです。子どもたちを比較することによって、子どもたち自身を傷つけることになります。あまり気に入られなかった子どもは失望し、憤りが生まれてくるものです。親が依怙贔屓するとき、その考え方が子どもにも影響を与え、子どもたちも人を偏り見ることになります。これは人間関係を壊していく原因になります。
 第三に、過大な期待をかけないことです。子どもたちは親から過大な期待をかけられるとき、そのプレッシャーに押しつぶされてしまうことがあります。また自分がすることが親にとって十分なものではないと考えてしまいます。親はしばしば自分ができなかったことを子どもに期待をするものだからです。
 最後に、親として子どものために犠牲を払うことを惜しまないことです。子どもを育むことは確かに多くの犠牲を必要とします。犠牲を払うことに失敗する親は子どもを怒らせることになります。子どものために私たち親が捧げる犠牲は親にとっても大きな喜びであるはずです。

20121118 地の塩、世界の光2012年11月18日

「あなたがたは、地の塩です。・・・ あなたがたは、世界の光です。」
マタイの福音書5章13~14節
 イエス様は弟子たちに「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世界の光です。」と言われました。この有名な言葉を覚えるたびにクリスチャンとして身が引き締まる思いが致します。第一に、イエス様は「あなたがたは」という代名詞をたいへん強く言い表しています。すなわち「あなたがただけが、地の塩であり、あなたがただけが世界の光なのです。」と言っているのです。もしクリスチャンが地の塩、世界の光でなければ、この世界の腐敗を押しとどめ、この世界の暗闇を明るくすることはできないと言うのです。この世界でクリスチャンは時として蔑まれたり、軽んじられたり、ひどい目にあったりすることがあるかもしれませんが、イエス様はクリスチャンが世界の希望であると教えているのです。
 第二に、「あなたがたは」と言って複数形でクリスチャンを表しています。それは教会全体を指し示しています。塩は一粒では限界があります。しかしまとまってこの世界に散らされて行くとき、大きな働きをすることができるのです。また光も一筋では弱いものですが、全体としてまとまれば大きな光を生み、世界を照らすことができるのです。この世界は罪のゆえに神様から失われ、救いを必要としています。教会は全体でまとまってこの世界の中で地の塩、世界の光として働いていく使命が与えられています。
 第三に「です」と言われています。塩であれ、光であれと命じているのではありません。「あなたがたは地の塩です。世界の光です。」と事実を言い表しています。これはクリスチャンが一体何者なのかを表しているのです。大切なことは私たちがイエス様に結びついている者であることです。この事実が私たちを地の塩、世界の光にしているのです。私たちの塩気の源はイエス様です。また私たちの光の源はイエス様です。イエス様こそが真の光です。イエス様はご自分の光を私たちクリスチャンに灯し、クリスチャンを通してご自分の光をこの世界に残されたのです。

20121125 塩として、光として2012年11月25日

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。・・・ あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」 マタイの福音書5章13、14節
 イエス様が弟子たちに「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世界の光です。」と言われたとき、それはどんな意味で語ったのでしょうか。それは塩と光が持つ影響力について語ったのです。塩は食物の中に振り入れられたときその腐敗を防ぐ働きがあります。イエス様は弟子たちに、罪と不道徳とが満ちているこの地上にあって、塩としての働きが使命としてあることを教えたのです。塩のきき方はじわっと少しずつ作用していきます。直接というより間接的な作用です。イエス様は弟子たちに、彼らの生き方を通じてイエス様の聖さと愛とを証しするように教えたのです。コリント人への手紙第一に「あなた方は食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(10章31節)とあります。
 また光はもっと積極的に、そして直接的な働きをします。光は暗やみをパッと明るくします。この世界は罪のゆえに暗闇が支配しています。人の心は闇の中に置かれています。イエス様は弟子たちに彼らは暗やみを照らす光であると語られたのです。塩であるとは、行いを通して間接的にイエス様を証しすることですが、光であるとは、直接的にことばをもってはっきりとイエス様のことを証しすることです。行いを通して証しするだけでは不十分です。ことばをもって明確に伝えなければ、神様の福音のメッセージをこの世界の人々に伝えていくことはできません。塩であれ、また光であれその源が私たちの自身の中にあるのではありません。その源はイエス様です。私たちイエス様の弟子たちが塩と光になれるのはイエス様にしっかり結びついているからです。地の塩、世界の光としてイエス様を証ししましょう。