すべてはわたしのもの2017年01月29日

 わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。
                         民数記3章12節

 民数記3章には、「レビ人(部族)」が祭司アロンにつき添い、仕える部族として選ばれていることが記されています。そしてレビ人(部族)が、その役割を担う理由についても触れています。それが上記聖書箇所です。
 その内容は「レビ人はわたしのもの」だから、「イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに」するとの主張ですが、その根底にある神さまの教えは出エジプト記まで遡ります。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである」(出エジプト記13章2節)。つまり神さまはここで「イスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子」は「わたしのもの」と語り、その初子の代わりに「レビ人(部族)」を「取ることにした」と言っています。しかも、神さまは「レビ人(部族)」に対しても、「レビはわたしのもの」と語っています。なぜ「レビはわたしのもの」なのでしょうか。創世記29章から「レビ」の出生を調べると、彼はヤコブ(イスラエル人の始祖)の初子ではありません。ヤコブ(イスラエル人の始祖)の初子は、レアが産んだ「ルベン」で、「レビ」は3番目です。しかし神さまは、その「レビ」を選び、「レビ人はわたしのもの」と主張しているのです。
 つまり「初子でないレビに対して、レビ人はわたしのもの」と主張しているのです。なぜでしょうか。その理由を探るのに参考にしたいのが、民数記3章13節と45節最後に記されている「わたしは主である」(民数記3章13節b、45節b)の言葉です。
 神さまは、「主」だからこそ、すべては神さまの思い、すべては神さまのお考えの通りに進められるのです。「初子がわたしのもの」であるだけでなく、「すべてのものがわたしのもの」なのです。だとするならば、私たちに求められていることは、それを受け止め、それに従うことです。
 今週も、神さまがあなたの歩みの上になしてくださる一つ一つの出来事を、「神さまのなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3章11節a)と告白しつつ、肯定的に受け止めて前進していきましょう。(吉持日輪生)

私たちの間に臨在する神さま2017年01月22日

 イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。                          民数記2章2節

民数記2章には、「天幕(幕屋)」を中心とした、各部族の配置が記されています。それが左図ですが、これを見て何か感じるものがあるでしょうか。私の印象は「12部族すべてが同じ方向を向いていなかった」というものでした。
図にある通り「天幕(幕屋)」を中心に3部族がお互いに向き合っています。西の「エフライム」「マナセ」「ベニヤミン」の向かいには、「ユダ」「イッサカル」「ゼブルン」が位置し、北の「ナフタリ」「アシェル」「ダン」の向かいには、「ガド」「シメオン」「ルベン」が位置しています。同じ「約束の地」を目指すイスラエルの民がみな、同じ方向を向いていなかったというのは、私にとってはとても新鮮でした。そして教会のあり方についても、この宿営のようでいいのだと再確認させられました。
 つまり教会も、みなが同じ方向に向かなければ「約束の地」へとたどり着けないのではなく、共に「約束の地」を目指すからこそ、私たちもお互いに向き合うのです。そして意見をぶつけ合い、やり方について、考え方について意見交換をし、時に対立や、理解し合えない時もあるけれども、その間に「神さまの臨在する天幕(礼拝)」を置きながら、お互いに理解し合い、お互いに整えられていくのです。これが神の民の姿、教会の姿です。
 ヨハネの福音書1章14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。今週も、対立する人間関係の間にイエスさまを置いて共に「約束の地」を目指しましょう。                 (吉持日輪生)

ひとみのように見守り、御翼の陰にかくまわれて2017年01月15日

 イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。           民数記1章2節

 「民数記」は、書名通り「民の数を記す」ところから始まります。しかし、当時のイスラエルの民全員の人数を数えたわけではありません。上記2節にある通り「すべての男子」の人口調査であり、さらに18節を読むと「第二月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごとに、父祖の家ごとに、二十歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記した」とありますから「20歳以上」の人口調査であったことがわかります。また20節を読むと「イスラエルの長子ルベンの子孫は、氏族ごと、父祖の家ごとの、その家系の者であって、ひとりひとり名を数えられた二十歳以上で軍務につくことのできるすべての男子であった」とあることから、「軍務につくことのできる」人の人口調査だったこともわかります。つまりまとめると「20歳以上で軍務につくことのできるすべての男子」の人口調査でした。そしてその人数は、「60万3550人」(46節)であったと記されています。
 さてこの「約60万人」という数字が、多いのか少ないのかですが、現在の日本の自衛隊が約23万人(防衛省発表、2016年3月末)と考えると、その2.6倍の軍隊を持つ集団は、当時の近隣諸国にとってとても脅威に感じたことでしょう。
 創世記に記されているヨセフの時代、最初にエジプトに入ってきたヤコブ一族の人数は70人(出エジプト記1章5節)でした。神さまは、このヤコブ一族をエジプトという大国の懐に抱かせながら、約60万人の軍隊を持つ国へと導かれたのです。長い歴史を通して現わされたくすしい神さまの御業です。
 「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください」(詩篇17篇8節)。今週も、この神さまに信頼して歩みましょう。(吉持日輪生)

無割礼の心2017年01月08日

しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。
レビ記26章41節

 レビ記の全シリーズは今回で最後となります。そして、今回は最後のくくりである23章から26章の2回目で、24章と26章に注目します。この24章と26章は、神の聖を冒涜すること、また、人が冒涜の歴史を歩むことが記されています。そして、その冒涜の歴史の末に言われていることが上記の箇所です。冒涜の咎が償われていくためには、無割礼の心がへりくだる必要があるのです。
 では、無割礼の心とはどのような意味なのでしょうか。
 まず、重要なのは「無割礼」という言葉です。無割礼とは割礼が施されていないことを意味します。割礼とは、神と神の民の契約において重要な事柄で、男性の生殖器の包皮の先を少し切り、包皮で覆われていた部分を露わにする行為を指します。イエス・キリストの到来以後、これは象徴的行為として受け止められ、実際的な割礼は無くなりました。無割礼の心とは、割礼が施されていない心なのです。つまり、無割礼の心がへりくだるとは、割礼が施されている状態の心になることでしょう。
 では、それはどのような心が求められているのでしょうか。
それは、割礼が施されている生殖器のように、心の隠されている部分が露わになっているということです。しかし、それは容易なことでありません。もし、男性であれば、割礼には相当な痛みが伴うことは想像するのは難しくありません。同じように、心に割礼を受けるとは相当な痛みや苦しみが伴うことなのです。しかし、それが求められています。このレビ記のシリーズで、何度も自らの心と向き合うことを教えられてきました。その心と向き合う行為は痛みや苦しみが伴う行為なのです。自らの心と向き合うことによる痛みや苦しみを避けては、割礼の心には至りません。神に対する冒涜の歴史を歩むのではなく、神の目から見て割礼を受けている、全てが露わになった心を目指していきましょう。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

聖なる時2017年01月01日

あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。     レビ記25章10節

 今回から、レビ記最後のくくりである23章から26章を取り扱います。このシリーズでは、27章は割愛します。さて、23章から 26章の構造には特徴があります。23章と25章は聖なる時について、24章と26章は冒涜について記されているのです。今回は、23章と25章に記されている聖なる時に注目します。
 23章と25章には、7という数字を中心に聖なる日や年が定められています。
・7日目の安息日 ・7回目の安息日の翌日50日目 ・第7の月の1日目 ・その他祭りの日 ・7年目の安息年 ・7回目の安息年の翌年50年目のヨベルの年
 規定では、これらの日や年を聖とするよう命令されています。そして、7年目の安息年と50年目のヨベルの年には食物を育てることや収穫が禁じられ、それ以外の上記の日には仕事が一切禁じられています。
 これらのことは何を示し、聖とはどのような関係があるのでしょうか。
 これらは人による自らのわざをやめさせようとしているのです。これら全てを守るなら、7日に1度、2ヶ月に1度、仕事をせず、さらに、7年目には食物を得るために何もすることはできません。また、ヨベルの年には、自分が得た土地や奴隷たちを規定に従って、手放さなければなりません。つまり、50年、もしくはそれより短い期間、自らの手で築き上げてきた財産のほとんどが無に帰するのです。この規定と向き合うのであれば、人は自らのわざで何かを築き上げたり、成し遂げようとしたりすることがどれだけ無意味なことかを知るでしょう。それを知る人は、自らのわざを自分自身のためだけに用いることから解放されていくはずです。このことが聖に、「自己中心の心がない姿」に結びついてくるのです。聖なる人とは、自らのわざで何かを築き上げたり、成し遂げようとしたりしません。自らのわざは虚しいと知り、全てのものは神のものであると認め、神の前に誠実に生きるのです。そこに自己中心の姿はなく、聖なる姿があるはずです。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

聖への道2016年12月25日

「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。レビ記19章2節

 今回は、レビ記17章から22章のくくりの2回目です。前回、このくくりでは、聖についての言及が19章でピークに達すると説明しましたが、今日は、その19章に注目します。このシリーズで、聖とは「自己中心の心がなくなること」であると述べましたが、そのことは、今回の箇所にも当てはまります。
 19章は、聖への道を指し示しています。注意しなければならないのは、この19章に記されていることを実行したから聖となるわけではありません。もし、行うことで聖となるとするのであれば、それは律法主義に陥るだけです。神がこの規定を通して至らせようとしている心を求めなければなりません。
 19章には、イエス・キリストが、旧約聖書は2つの戒めに集約されると述べた一つが記されています。イエス・キリストはこう言いました。「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:39)この第二の戒めが、レビ記19章18節に登場します。「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。」イエス・キリストも戒めを通して、自らの心と向き合い、聖に至ることを求めておられるのです。それだけでなく、19章を見れば、十戒との関わりがあることも分かります(3、4、11、12節)。教会で今でも読まれる十戒が関連していることからも、この19章は今の私たちにも深く関わることだと分かります。
 ぜひ、この機会にレビ記19章を読んでみてはいかがでしょうか。これらが聖への道、「自己中心の心がなくなること」への道であることを覚え、読んでみましょう。19章を読んでみると分かるのですが、現代の私たちにも十分向き合えることが記されています。私たちがこれを読み、そしてこの規定と向き合うことによって、自らの心を顧みる時を持つことができることを願っています。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

血による贖い2016年12月18日

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。                      レビ記17章11節

 今回から、レビ記の17章から22章までのくくりを取り扱います。このくくりでは、聖についての言及が多く、聖を汚してはならないことがしばしば命令されています。そして、聖についての言及は19章でピークを迎えます。19章では明らかに十戒と関連したかたちで聖について言及されています。
 今までと同じように2回にわたって1つのくくりを見ますが、今回は17章に登場する「血」に注目します。
 まず、17章は、血がいのちであることを示しています。そして、このいのちはヘブライ語では「ネフェシュ」が使われており、ネフェシュは他の箇所では「たましい」と訳されています。つまり、この箇所は、たましいが贖われるためには血が必要であることを教えているのです。さらに、いけにえの血はものや人を聖別する力があるとレビ記では教えられています(レビ8:15)。
 これらに、キリストの贖いの原点があるのです。キリストは十字架によって血を流されました。それによって私たちは贖われています。そして、キリストの血による贖いは、私たちのたましいを贖い、私たちが聖別されていくことを意味しているのです。
 以前に、『神さまの怒りを受ける人間』で、贖いとは、神の怒りをなだめることを意味していると扱いました。私たちは、キリストの血によって、神の怒りを受けることなく、聖なるものとなることができます。ただし、聖なるものとなっても、その内実においても聖なるものを目指さなければなりません。そのことが、18章以下に記されています。これらは、次回扱います。
 洗礼を受けると聖餐式にあずかることができます。この聖餐式では、キリストの血を象徴するぶどう酒(ぶどう液)を飲みます。聖餐式の時、また日々の生活の中で、キリストの血による贖いがどのような意味を持つのか、その恵みを忘れずに歩みましょう。       参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

神に近づく2016年12月11日

それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、                  レビ記10章10節

 前回から、レビ記の8章から16章に注目しています。今回も、聖、俗、きよさ、汚れに注目し、これらから神に近づく上での境界について見ます。
 レビ記の規定を見るときに、神に近づくことができる人は限定されていることが分かります。16章では、大祭司であるアロンのみが年に一度だけ至聖所に入ることができます。また、聖所には祭司のみ入ることが許されています。一方で、他の一般の民は聖所に入ることができず、宿営内で生活するよう命令されています。ただし、その一般の民たちの中でも13章に記されているように、汚れている者は宿営の外で生活しなければなりません。このことから、イスラエルの民には、至聖所を中心に、大祭司、祭司、宿営に住む民、宿営の外の民と境界が敷かれているのです。至聖所は神の臨在があるところです。つまり、これらの境界は神への近さを表しています。聖であれば神に近く、汚れていれば神から遠いのです。8章から16章を通して、神に近づくためには聖でなければならないことを神は訴えかけています。
 前回、聖であるには自己中心の心がなくなっていく必要があるということを説明しました。聖とは心の問題です。私たちの心は神の前においてどこに位置しているでしょうか。汚れている心であるならば、神の民の生活にさえ仲間入りすることはできません。一方で、聖であるならばその人は神と共に住むことができます。自己中心の心が少しでもあるならばそれは聖となっていません。むしろ、汚れた心であるでしょう。罪ある人間が神の前でどのような立場にあるのかをわきまえ、聖となり、神に近づくためには、自らの心と向き合っていく必要があります。日々の生活の中で、自分自身の心を顧みる時を持ちましょう。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)

神の前における聖2016年12月04日

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。                        レビ記 11 章 45 節

前回で、レビ記1章から7章までを終え、今回から2回にわたって、8章から 16 章に注目します。8章から16章では、聖、俗、きよさ、汚れが中心的なテーマです。その中で最も重要で、神が人間に要求していることが、「聖となる」ということです。今回は、この聖に注目します。
 レビ記8章では、祭司の任職が行われます。祭司は、幕屋で働くために、たくさんのいけにえを献げ、聖となります。そして、9章で、幕屋での初めての礼拝が行われます。注目すべきは、聖となった祭司たちが、再度、自身のために罪のためのいけにえを礼拝前に献げるよう要求されていることです。これは、不可解です。任職式を経て、聖となったのにも関わらず、罪のためのいけにえが要求されているからです。結論から言うと、罪のためのいけにえの要求は、任職式を経て聖となった祭司が、なおも、その内面において贖わなければならないものがあることを示しています。つまり、外面的に聖となっていても、内面の聖が求められているのです。
 さて、祭司たちは自身が聖であり続けるために、あらゆる汚れから遠のき、倫理的にも正しい生活を送らなければなりませんでした。そうであるにも関わらず、内面においては、聖ではないものとして暗に扱われているのです。
 これは、聖に対して重要な示唆を与えています。聖とはしばしば、倫理観と結び合わされます。確かに、外面的な聖としてはそのような一面があるでしょう。しかし、神の前では、倫理的に、道徳的にすぐれているから聖であるとは限りません。神の前における聖とは、倫理観や道徳を超えたところにあるのです。神の前における聖とは、前回も扱ったように自己中心の心がなくなることが重要なのです。             参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
吉持尽主『ナジル人としてのサムソン』
(吉持尽主)

神に喜ばれるささげ物2016年11月27日

穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは【主】への火によるささげ物の最も聖なるものである。         レビ記2章 10 節

 今回も、1章から7章のくくりから、献げものについて見ていきます。レビ記には、5つの献げものが記されています。1つ目は、全焼のいけにえ、2つ目は、穀物のささげ物、3つ目は、和解のいけにえ、4つ目は、罪のためのいけにえ、5つ目は、罪過のためのいけにえです。これらは、神に喜ばれる順序で記されており、1つ目の全焼のいけにえが神の最も喜ぶささげ物です。
 さて、2つ目から4つ目のささげ物では、それらが「聖」であると記されています。1つ目の全焼のいけにえは、聖であるとは明記されていませんが、注意深く読んでいけ
ば、聖であることが分かります。
 では、これらのささげ物はどのような経緯を通って、聖となっていくのでしょうか。それは、ささげ物が切られ、あらゆる部分に分けられ、内臓も取り分けられ、焼かれることによってです。ここには、私たちが神の前で聖とされていく上で必要なことが指し示されています。その必要なこととは、私たちの心も切られ、心の奥底まであらわにされ、焼かれて、無くなっていくことです。すると、「心」を無くして、生きていくことが聖なのかと思われるかもしれません。しかし、ここでは、どのような「心」が無くなっていくかが重要です。それは、生まれながら罪に陥っている人間が持つ自己中心の心です。神の前に聖となるとは、神の前で自己中心の心が切られ、あらわにされ、焼かれて、無くなっていくことが必要なのです。
 私たちは、日々、どのような心を持って歩んでいるでしょうか。自己中心の心で歩んでいるのであれば、それを神は喜ばれません。神に受け入れられていくには、私たちには、自己中心の心ではない、全く別の新しい心が必要です。ぜひ、この機会に、自らの心をかえりみましょう。もし、そこに自己中心の心があるのであれば、それは、神の前では罪ある人間であるという証拠です。
参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)