直ぐな心をもって歩もう ― 2025年04月27日
そこでは正直な人が神と論じ合うことができ、私は、とこしえにさばきを免れるだろう。 ヨブ記23章7節
今回は、冒頭引用個所の「正直な」ということばに注目したいと思います。この「正直な」と訳されているヘブル語は、ヨブ記にとってキーワードとなる大切なことばです。
例えば「この人(ヨブ)は誠実で直ぐな心を持ち」(ヨブ記1章1節)の「直ぐな心」、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記1章8節)、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記2章3節)は、神さまがサタンとのやり取りの中で、ヨブに対して使った表現です。それが「直ぐな心」ということばで、冒頭引用個所の「正直な」と同じヘブル語です。
そして私たちは、ヨブ記を読み進めながら、ヨブの「直ぐな心」に触れ続けることができ、さらにヨブの発言を通して、神さまが語られる「直ぐな心」を具体的に知ることができます。みなさんは、ここまでのヨブの「直ぐな心」からの発言に触れ、どのような印象を持たれているでしょうか。私は、ここまで読み進めながら、ヨブの発言にふさわしいことばを探すと「穏やかさ」「冷静さ」ではなく、「赤裸々な」「包み隠さず」ということばが頭に浮かびます。
つまり神さまが語る「直ぐな心」「正直さ」とは、自分の中にある思いを赤裸々に、包み隠さず投げかけることを意味しているのかもしれません。そのように考えると、詩篇に記されている「祈り」にも、またサムエル記第二12章のダビデ王の姿や、またゲツセマネでのイエスさまの祈りにも通じるものを感じます。
まさにヨブが、冒頭引用個所で語っている通り「正直な人が神と論じ合うことができ」るのです。
私たちも、神さまの前では取り繕うことなく、「赤裸々な」「包み隠さず」、自分の思いをぶつける時、神さまと論じ合うことができ、神さまもそういう私たちのことを「直ぐな心」と認めてくださるのでしょう。
今週も、神さまの前に「直ぐな心」をもって、日々歩みましょう。(吉持日輪生)
今回は、冒頭引用個所の「正直な」ということばに注目したいと思います。この「正直な」と訳されているヘブル語は、ヨブ記にとってキーワードとなる大切なことばです。
例えば「この人(ヨブ)は誠実で直ぐな心を持ち」(ヨブ記1章1節)の「直ぐな心」、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記1章8節)、「彼(ヨブ)のように、誠実で直ぐな心を持ち…」(ヨブ記2章3節)は、神さまがサタンとのやり取りの中で、ヨブに対して使った表現です。それが「直ぐな心」ということばで、冒頭引用個所の「正直な」と同じヘブル語です。
そして私たちは、ヨブ記を読み進めながら、ヨブの「直ぐな心」に触れ続けることができ、さらにヨブの発言を通して、神さまが語られる「直ぐな心」を具体的に知ることができます。みなさんは、ここまでのヨブの「直ぐな心」からの発言に触れ、どのような印象を持たれているでしょうか。私は、ここまで読み進めながら、ヨブの発言にふさわしいことばを探すと「穏やかさ」「冷静さ」ではなく、「赤裸々な」「包み隠さず」ということばが頭に浮かびます。
つまり神さまが語る「直ぐな心」「正直さ」とは、自分の中にある思いを赤裸々に、包み隠さず投げかけることを意味しているのかもしれません。そのように考えると、詩篇に記されている「祈り」にも、またサムエル記第二12章のダビデ王の姿や、またゲツセマネでのイエスさまの祈りにも通じるものを感じます。
まさにヨブが、冒頭引用個所で語っている通り「正直な人が神と論じ合うことができ」るのです。
私たちも、神さまの前では取り繕うことなく、「赤裸々な」「包み隠さず」、自分の思いをぶつける時、神さまと論じ合うことができ、神さまもそういう私たちのことを「直ぐな心」と認めてくださるのでしょう。
今週も、神さまの前に「直ぐな心」をもって、日々歩みましょう。(吉持日輪生)
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