神の前における聖2016年12月04日

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。                        レビ記 11 章 45 節

前回で、レビ記1章から7章までを終え、今回から2回にわたって、8章から 16 章に注目します。8章から16章では、聖、俗、きよさ、汚れが中心的なテーマです。その中で最も重要で、神が人間に要求していることが、「聖となる」ということです。今回は、この聖に注目します。
 レビ記8章では、祭司の任職が行われます。祭司は、幕屋で働くために、たくさんのいけにえを献げ、聖となります。そして、9章で、幕屋での初めての礼拝が行われます。注目すべきは、聖となった祭司たちが、再度、自身のために罪のためのいけにえを礼拝前に献げるよう要求されていることです。これは、不可解です。任職式を経て、聖となったのにも関わらず、罪のためのいけにえが要求されているからです。結論から言うと、罪のためのいけにえの要求は、任職式を経て聖となった祭司が、なおも、その内面において贖わなければならないものがあることを示しています。つまり、外面的に聖となっていても、内面の聖が求められているのです。
 さて、祭司たちは自身が聖であり続けるために、あらゆる汚れから遠のき、倫理的にも正しい生活を送らなければなりませんでした。そうであるにも関わらず、内面においては、聖ではないものとして暗に扱われているのです。
 これは、聖に対して重要な示唆を与えています。聖とはしばしば、倫理観と結び合わされます。確かに、外面的な聖としてはそのような一面があるでしょう。しかし、神の前では、倫理的に、道徳的にすぐれているから聖であるとは限りません。神の前における聖とは、倫理観や道徳を超えたところにあるのです。神の前における聖とは、前回も扱ったように自己中心の心がなくなることが重要なのです。             参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
吉持尽主『ナジル人としてのサムソン』
(吉持尽主)

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