ヨブの思いからわかること ― 2025年01月26日
それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。
ヨブ記10章6~7節
ヨブ記10章は、ヨブ記9章に続いて、ヨブの発言が記されています。そして10章も9章と同様、イエスさまのような「仲介者、仲裁者、通訳者」が存在しないことに触れています。上記個所は、「あなた(神さま)の手から救い出せる者がいない」(7節)のに、「私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか」(6節)と嘆いています。つまりヨブの主張は、イエスさまのような「咎から、また罪から私たちを助け出してくださる救い主」がおられるのであれば、「私の咎を探し、私の罪を探る」(6節)ことは理解できるけれども、そのような存在がいない中で、「私の咎を探し、私の罪を探る」のは困るということでしょう。そのようにこの個所を読むと「私に悪しきことがないこと」(7節)は、まさにイエスさまの十字架と復活による贖いのゆえに「私に悪しきことがないこと」につながります。
私たちは、このようなヨブの思い、思考から、旧約聖書時代の人たちの信仰を垣間見ることができます。「仲介者、仲裁者、通訳者」がいない中で父なる神さまと向き合うことの厳しさ、辛さに触れることができます。そしてヨブはこのように叫んでいます。
もし、私が罪ある者となるなら、あなたは私を見張られます。こうして、私の咎を免じてはくださいません。もし、私が悪しき者とされるのなら、ああ、なんと悲しいことでしょう。私は正しい者とされても、頭を上げることはできません。自分の恥に飽き飽きし、自分の苦しみを見ていますから。
ヨブ記10章14~15節
今週も、私たちにはイエスさまという、身をもって私たちの咎、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったお方がおられること、イエスさまのゆえに「罪」「咎」を赦されていることに感謝しつつ、三位一体の神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記10章6~7節
ヨブ記10章は、ヨブ記9章に続いて、ヨブの発言が記されています。そして10章も9章と同様、イエスさまのような「仲介者、仲裁者、通訳者」が存在しないことに触れています。上記個所は、「あなた(神さま)の手から救い出せる者がいない」(7節)のに、「私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか」(6節)と嘆いています。つまりヨブの主張は、イエスさまのような「咎から、また罪から私たちを助け出してくださる救い主」がおられるのであれば、「私の咎を探し、私の罪を探る」(6節)ことは理解できるけれども、そのような存在がいない中で、「私の咎を探し、私の罪を探る」のは困るということでしょう。そのようにこの個所を読むと「私に悪しきことがないこと」(7節)は、まさにイエスさまの十字架と復活による贖いのゆえに「私に悪しきことがないこと」につながります。
私たちは、このようなヨブの思い、思考から、旧約聖書時代の人たちの信仰を垣間見ることができます。「仲介者、仲裁者、通訳者」がいない中で父なる神さまと向き合うことの厳しさ、辛さに触れることができます。そしてヨブはこのように叫んでいます。
もし、私が罪ある者となるなら、あなたは私を見張られます。こうして、私の咎を免じてはくださいません。もし、私が悪しき者とされるのなら、ああ、なんと悲しいことでしょう。私は正しい者とされても、頭を上げることはできません。自分の恥に飽き飽きし、自分の苦しみを見ていますから。
ヨブ記10章14~15節
今週も、私たちにはイエスさまという、身をもって私たちの咎、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったお方がおられること、イエスさまのゆえに「罪」「咎」を赦されていることに感謝しつつ、三位一体の神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
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