主はあなたを守る方2026年05月10日

主は すべてのわざわいからあなたを守り
あなたのたましいを守られる。     
                    詩篇121篇7節

 私たちの人生には、様々なことが起こります。目の前の恐れや不安、課題や試練に対して、どのように対応したらよいのか。詩篇121篇は、人生に起こる、災いも含めた様々な出来事からの守りについて教えています。
 詩篇121篇は、イスラエルの民がエルサレムへの巡礼の旅の中で歌う賛美です。その旅路には山々が立ちはだかります。当時の人々にとって山は危険や脅威の象徴でした。険しい崖や谷、洞窟が多く、野獣や盗賊の危険がありました。著者は山を目の前にして不安や恐れを感じ、「私の助けは どこから来るのか。」と問います。 
 この「助け」という言葉には、目に見える物質的な助けと、目には見えない霊的(心理的、感情的な)助けの両方が含まれます。著者はすぐに答えを宣言します。

2節「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」

 天地を造られた創造主である神さまが、私を助けてくださるお方です。私たちが恐れるどんな危険や脅威さえも支配しておられ、私たちの苦しみ、悩み、恐れよりも、大きく、偉大であり、力強く、全てを守り導いてくださいます。信仰者の歩みとは、この天地を造られた主から来る助けを受け取って生きる人生とも言えます。ここで、私たちを守ってくださる神さまの3つのご性質を学ばせて頂きたいと思います。

1.あなたの足をよろけさせず、まどろむこともないお方(3~4節)
 神さまは私たちの歩み、人生の道を守り導かれるお方です。その守りは24時間365日。眠ることもなく絶えず見守り続けてくださっています。だから私たちはいつでも神さまに助けを求めることができます。

2.あなたの右手をおおう陰(5節)
 右手とは利き手、つまり私たちが生きるために行う大切な一つ一つの働きを意味します。仕事や子育て、家事や介護、そして学校での勉強など、私たちが最も大切にし、助けを必要とする部分を神さまは知っておられ、そこを覆ってくださり、様々な攻撃から守ってくださいます。

3.すべてのわざわいから、たましいを守られる方(7節)
 神さまは「あらゆる災い、脅威」から私たちを守られるお方です。私たちのたましい(いのちを含めた存在そのもの)を一切の悪から守ってくださいます。私たちの人生には常に出入り(出会いと別れ)がありますが、神さまは今この瞬間から、とこしえまでも、永遠に守ってくださるお方です。

 主はあなたを守る方です。恐れや不安、心配ごともすべて主にゆだねて今週も歩ませていただきましょう。                        (笠川路人)

生ける望みに生きる2026年05月10日

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
ペテロの手紙第一 1章3節

 希望とは「あることの実現を望み、願うこと」です。人生の全てが希望通りにいくわけではありませんが、もし、心の中に変わることのない希望が確かにあるなら、人生は変えられます。ペテロはそのような希望を経験した一人でした。イエスさまの復活を通して永遠のいのちを確信したペテロの心は、揺るぐことのない生きた希望であふれ、与えられた使命に生きました。ペテロは迫害の中にある教会に希望を伝えるために手紙を書き送りました。3節から5節にかけて、生ける望み、天に蓄えられている資産、神の御力による守りという三つの希望について教えています。

1.生ける望みを持たせてくださる(3節)  
 神さまは私たちを愛するがゆえに、イエスさまの十字架と復活によって救いを与えてくださいました。罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じる者には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、新しく生まれる経験をします。ご聖霊が心に住み、生涯を導いてくださいます。永遠に生きておられる神さまとの関係そのものが、私たちの生きた希望と言えます。

2.天に蓄えられている資産(4節) 
 私たちは天に蓄えられている素晴らしい資産を受け継ぐ者です。ですから、この地上の歩みにおいて、自分の欲望を満たすことに必死になったり、何かを失うことを極端に恐れる必要もありません。「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイの福音書6章33節)の教えに生き、神を愛し、隣人を愛する歩みに生きることができます。朽ちていくものよりも、いつまでも残るもの——信仰、希望、愛(コリント人への手紙第一13章13節)——を大切にする歩みへと変えられていきます。

3.神の御力によって守られている(5節) 
 神さまを信じる者は、神の御力によって守られています。「守る」という言葉には、兵士が保護をするという意味があります。神さまは私たちの人生全体を見守り、悪から守り、必要な助けを与えてくださいます。そして、この朽ちていく身体が贖われる時、私たちは欠けることのない永遠のいのちを受け取る約束が与えられています。

あなたはどんな希望を持って生きていますか。イエスさまが与えてくださる生ける望みを受け取り、変わることのない希望をもって日々歩ませていただきましょう。
                              (笠川路人)

互いに愛し合う2026年04月26日

9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

                    ローマ人への手紙 12章9~11節

 教会は素晴らしい場所ですが、同時に難しさもあります。教会生活の素晴らしさを味わうために、教会に関わっている一人ひとりが聖書の教えをいかに具体的に適用することが重要です。上記聖書箇所から、実践すべき5つのポイントが読み取れます。

1. 偽りのない愛(9節前半)
 「偽り」という言葉の語源には仮面をつけた劇の役者の意味があります。心の中では嫌っていても表面だけ取り繕うのではなく、真実に基づいた愛を持つことが求められます。具体的な実践として、隣人の良いところを見つけて言葉にする真実な「社交辞令」が挙げられます。

2. 悪を憎み善から離れない(9節後半)
 単に悪いことを避けるだけでなく、心から悪そのものを憎むことが重要です。誰かが見ているから、あるいは罰せられるからしないのではなく、神さまが心の中まで見ておられることを意識し、自ら進んで善を行い続ける姿勢が求められます。

3. 兄弟愛をもって愛し合う(10節前半)
 クリスチャンは血の繋がりを超え、キリストにあって神の家族(兄弟姉妹)となりました。この関係を大切にするため、受洗記念日を祝ったり、配付される「祈りの課題」を自分自身の家族のこととして祈ったりする具体的な関わりを持ちたいものです。

4. 尊敬し合う(10節後半)
 当時の社会も現代も、人は「認められたい、尊敬されたい」と願っています。それに対して、聖書は互いに先に相手をすぐれた者として尊敬することを教えます。自分から進んで挨拶をすることは、互いに尊敬し合う最もシンプルな現れです。

5. 全身全霊で主に仕える(11節)
 全身全霊で主に仕える原動力は、自分の罪が十字架によって赦されたことへの感動と感謝です。主に仕えたい気持ちがまだないなら、自分の罪深さと向き合い、神の愛を再確認することが必要です。また、教会にいる人に躓き、熱心さが冷めてしまったなら、教会は「掃除中の場所」であり、不完全な人々が変えられている途上にあることを思い出して欲しいです。人にではなく、常にイエスさまに目を向けて仕え続けるよう励みましょう。

 これらの実践をとおして教会生活の素晴らしさを思う存分楽しめます。これからも互いに愛し合って歩んでいきたいと思います。        
                            (ハレファ・スルヤ)

わたしの子羊を飼いなさい2026年04月19日

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」 
                      ヨハネの福音書21章15節

 聖書とは、不完全で失敗だらけの人間を、神が愛をもって導かれる歩みの記録とも言えるでしょう。有名な聖書の登場人物も、数々の失敗や挫折を経験しながら、神さまに与えられた使命に生きました。私たちも時に失敗し、罪を犯してしまうことがあります。しかしその度に、神さまの愛と赦しの大きさと深さを体験します。どんな時も私の右の手をしっかりとつかんでいてくださる神さま(詩篇73篇23節)の愛の深さを知り、赦しを体験するとき、私たちの心は変えられていきます。
 復活されたイエスさまはペテロに、三度「あなたはわたしを愛しますか」と問いかけられました。ペテロはあきらめそうになりましたが、イエスさまは彼をあきらめませんでした。むしろ彼の信仰がなくならないように祈られたのです。イエスさまの問いに対するペテロの回答、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」の中に、ペテロの回復と成長を見ることができます。自分の愛の強さではなく、すべてをご存じのイエスさまに信頼し、強がることも他者と比較することもしなくなった姿です。そのようなペテロに、イエスさまは「わたしの子羊を飼いなさい」と使命を与えられました。
 イエスさまを愛する者は、その子羊を飼います。この「飼う」とは、羊が十分に養われるように導き、世話をすることを意味します。ここでの子羊とは、私たちの周りにいる大切な人々です。そしてその人々は、イエスさまの子羊です。私たちは大牧者であるイエスさまに仕える者として、委ねられた人々に仕えていきます。
 同時に、私たち自身もまたイエスさまの子羊であることを覚えることが大切です。大牧者との関係の中で養われることなしに、他者に仕えることはできません。もし主に仕えたい、用いていただきたいと願うなら、自らが養われる環境を具体的に祈り求めましょう。今週も、この月も、「わたしの子羊を飼いなさい」と語られるイエスさまの招きに応え、目の前の身近な人々を愛し、仕えていきましょう。
                         (笠川路人)

平安があなたがたにあるように2026年04月12日

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
                 ヨハネの福音書 20章19節

 もしイエス・キリストの復活がなかったら、この教会は、いや世界中のキリスト教会は存在していないでしょう。復活はそれほどに重要な出来事です。教会は約2000年にわたって、イエスさまの復活を証しし続けてきました。しかし、復活の日の夕方に、弟子たちは恐れの中で戸に鍵をかけて閉じこもっていました。イエスの遺体について問い詰められるのではという不安に支配されていたのです。鍵がかけられ、閉ざされた戸はまるで弟子たちの心を象徴しているかのようです。私たちも人生の中で、そのような時を経験します。
 そんな弟子たちの真ん中に、復活したイエスさまは来られ、「平安があなたがたにあるように」と語られました。この「平安」という言葉は、旧約聖書ではシャロームという単語に由来していますが、神さまとの関係が回復され、満たされた状態を意味します。イエスさまは十字架によって神と人との隔たりを取り除き、永遠の平和をもたらされました。弟子たちはイエスの傷を見ることで、復活の確かさを知り、恐れから喜びへと変えられました。そしてそのイエスさまの傷は、イザヤ書53章5節の預言の通り、私たちの罪の赦しと傷の癒しのしるしでもあります。
 さらにイエスさまは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(21節)と語り、22節では「聖霊を受けなさい」と、ペンテコステの約束について語られました。平安を受けた者は、その平安をもって世に遣わされるのです。恐れに心を閉ざされていた弟子たちは、やがて復活の証人として世界へと出て行きました。私たちもまた、たとえ不安や恐れの中にあってもイエスさまの平安を受け取ることができます。そしてその平安は、家庭や職場、地域において他者へと分かち合われていきます。復活の恵みは、恐れを平安に、悲しみを喜びに、傷を癒しに、喪失を希望へと変える力です。「平安があなたがたにあるように」という主のことばを受け取り、新しい歩みへと導かれていきましょう。   (笠川路人)

着任ご挨拶2026年04月07日

あなたのみことばは 私の足のともしび
私の道の光です。                   詩篇119篇105節

 主の御名を賛美いたします。
 この4月から吉持日輪生先生の後任として、茨木聖書教会の主任牧師に着任いたしました笠川路人(かさがわみちと)と申します。改めて、ご挨拶を兼ねて自己紹介をさせていただきます。
 私は牧師家庭の長男として生まれ、10歳(小学4年生)の冬に、両親の異動のため茨木聖書教会に来ました。小学6年生の12月に洗礼を受け、教会の皆さまの祈りと励ましによって育まれてきました。高校1年の夏に参加した、教団の青年宣教大会で献身の決心に導かれましたが、一旦、大学卒業後に社会人を10年経験してから海外の神学校で学びました。
 神学校卒業後、茨木聖書教会で伝道師、副牧師として吉持日輪生先生、早稚子先生ご夫妻と共に7年間ご奉仕させていただき、2022年春からは4年間、日本同盟基督教団の教団事務所(東京)で法人事務主事として奉仕させていただきました。
 今回の異動で茨木聖書教会に戻ってくるのは3度目となりますが、この教会に来て以来、ここに住んでいた時も、離れていた時も、約37年間にわたり、教会の皆さまの絶え間ないとりなしの祈りと励ましのお声がけがあったことを覚えます。前任の吉持先生ご夫妻のお働きをしっかりと引き継ぎつつ、自分にできることを精一杯、奉仕させていただきたいと願うと同時に、この教会のお一人おひとり、そして関係する方々のために祈り、牧者として仕えて参りたいと思います。主の栄光がキリストの身体である教会を通して現わされ、主の福音がこの地に伝えられていきますように、皆さまと共に仕え、歩んでいきたいと思います。
 吉持日輪生先生が12年に渡って1章ずつ取り上げてくださった週報のこの欄は、そのまま連載を引き継ぐことも検討しましたが、ハレファ・スルヤ先生とも相談の上、次週からは試験的に前週の説教の要約文を掲載させていただくことになりました。「私の足のともしび、私の道の光」(詩篇119:105)であるみことばを味わいながら、共に礼拝をささげ、新しい年度も歩んでいきましょう。それではどうぞよろしくお願いいたします。                  (笠川路人)

栄光と御力を主にお返しします2026年04月07日

 力ある者の子らよ。主に帰せよ。
 栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。
 聖なる装いをして主にひれ伏せ。       詩篇29篇1~2節

 詩篇29篇は上記のように始まります。その意味は、神さまの圧倒的な栄光と御力を認め、それらが主(神さま)のものであることを促すものです。
 また3節以降は、創世記1章1節から始まる「天地創造」を思い起こさせます。

はじめに神が天と地を創造された。
地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
創世記1章1~3節

 主の声は水の上にあり
 栄光の神は雷鳴をとどろかせる。
 主は大水の上におられる。
 主の声は力強く 
 主の声は威厳がある。              詩篇29篇3~4節

 「光、あれ」(創世記1章3節)の神さまの御声が、闇を打ち破る「雷鳴」のように描かれ、「主の声は 杉の木を引き裂き」(5節)は、雷に打たれた「杉の木」を思い起こさせます。また「子牛のように…若い野牛のように 跳ねさせる」(6節)は、地震(火山の噴火と共に発生する火山雷)の描写として読むことができます。また「大森林を裸にする」(9節)からは雷や噴火によって発生した森林火災の後を思い起こさせます。
 私が執筆する「恵泉」の最後にふさわしい詩篇と思わされました。吉持章の時代から始まり、笠川徹三牧師がそれを25年間引き継がれ、さらにこの12年間、創世記から1章ずつとり取り上げ(途中笠川路人牧師が執筆した時期もありました)、なんとか書き続けられたことを神さまに感謝しています。そして、それら全てが神さまの栄光と御力によることでしたと、神さまに栄光と御力をお返しする思いです。
 これまでのご愛読を心から感謝いたします。     (吉持日輪生)

とりなす者となろう2026年03月22日

 ほむべきかな 主。
 主は私の願いの声を聞かれた。       詩篇28篇6節

 詩篇28篇作者は、上記6節で「主は私の願いの声を聞かれた」と、すでに神さまが「私」の願いを聞いてくださったこととして語っています。しかし、その6篇が記されるまでの1~5節には、様々な詩篇作者の思い、叫びが書き残されています。

 どうか私に耳を閉ざさないでください。
 私に沈黙しないでください。
 私が 穴に下る者どもと同じにされないように。
 私の願いの声を聞いてください。
 どうか 悪者や不法を行う者どもと一緒に
 私を引いて行かないでください。
 彼らの行いとその悪にしたがって
 彼らに報いてください。
 その手のわざにしたがって彼らに報い
 その仕打ちに報復してください。       詩篇28篇1~4節(抜粋)

 このような様々な願いを、詩篇作者は神さまに祈り、叫び、訴え続けていく年月を経ながら、「主は私の願いを聞かれた」と叫ばずにはいられない経験へと導かれたのでしょう。
 そしてさらに詩篇作者のことばは、自分自身の経験、体験が、自分だけで終わらないように、「御民」「彼ら」へのとりなしの祈りへと広がっていきます。

 主は彼らの力。
 主は 主に油注がれた者の救いの砦。
 どうか御民を救ってください。
 あなたのゆずりの民を祝福してください。
 どうか彼らの羊飼いとなって
 いつまでも彼らを携え導いてください。    詩篇28篇8~9節

私たちも、詩篇作者のように自らの「主は私の願いを聞かれた」との経験、体験を、自分だけのものとして終わらせず、とりなし祈ることを通して、また語ることを通して、書き残すことを通して、さらに賛美することを通して、その祝福が広がっていくことを願う日々を歩みたいと思います。今週もとりなす者として歩みましょう。                            (吉持日輪生)

主を待ち望みつつ歩もう2026年03月15日

 主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。
 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。   
                          詩篇27篇1節

 詩篇27篇の作者は、力強く歌い始めます。反語的な表現を使い、「だれをも私は恐れない」「だれをも私は怖がらない」と始まります。
 さらに4節以降では、詩篇作者の神さまに対する一つの願いが記されています。

 一つのことを私は主に願った。
 それを私は求めている。
 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
 主の麗しさに目を注ぎ
 その宮で思いを巡らすために。     詩篇27篇4節

 詩篇作者は、「いのちの日の限り 主の家に住むこと」「主の宮で思い巡らすこと」を願っています。このような詩篇作者ですが、私たちと同様、このような信仰者として力強い思い、願いは長続きしません。詩篇作者の中に不安が募ります。

 どうか 御顔を私に隠さないでください。
 あなたのしもべを
 怒って 押しのけないでください。
 あなたは私の助けです。
 見放さないでください。見捨てないでください。
 私の救いの神よ。             詩篇27篇9節

 神さまへの信仰は、常に一定でもなければ、常に右肩上がりでもありません。そのことを詩篇作者は、素直に表現しています。そして最後このように締めくくります。

 待ち望め 主を。
 雄々しくあれ。心を強くせよ。
 待ち望め 主を。             詩篇27篇14節

 信仰が順調な時も、絶不調の時も、私たちは常に変わることなく「主を待ち望みつつ」歩みたいです。今週もそのように歩みましょう。      (吉持日輪生)

誠実に歩むために2026年03月08日

 主よ 私を弁護してください。
 私は誠実に歩み
 よろめくことなく 主に信頼しています。       詩篇26篇1節

 しかし私は 誠実に歩みます。
 私を贖い出してください。あわれんでください。  詩篇26篇11節

 詩篇作者の姿勢が、上記2つの引用箇所に現れています。1節「誠実に歩み」、11節「誠実に歩みます」とあるように、詩篇作者は、誠実に歩むことを心がけています。
 けれども詩篇作者が置かれている環境は、なかなか厳しいものでした。

 私は不信実な人とともに座らず
 偽善者とともに行きません。
 悪を行う者の集まりを憎み 
 悪しき者とともに座りません。            詩篇26篇4~5節

 どうか私のたましいを 罪人どもとともに
 私のいのちを 人の血を流す者どもとともに 
 取り去らないでください。
 彼らの手には悪事があり 
 その右の手は賄賂で満ちているのです。    詩篇26篇9~10節

 誠実に歩もうとする詩篇作者の周りには「不信実な人」「偽善者」(4節)、「悪を行う者」「悪しき者」(5節)、「罪人」「人の血を流す者」(9節)、「手に悪事があり、賄賂で満ちて(いる者)」(10節)とあります。
 そのような状況、環境の中で、詩篇作者が誠実に歩むために行っていたことも記されています。

 手を洗い 自らの潔白を示します。
 主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。
 感謝の声を響き渡らせて 語り告げます。
 あなたの奇しいみわざのすべてを。
 主よ 私は愛します。 
 あなたの住まいのある所
 あなたの栄光のとどまる所を。          詩篇26篇6~8節

 詩篇作者は、「誠実に歩む」ために、「祭壇の周り」「感謝の声を響き渡らせ」「神さまの奇しいみわざを語り告げ」「主を愛し」「主の住まいのある所 栄光のとどまる所」を歩こうとしています。私たちも詩篇作者のように生きることで「誠実に歩む者」として今週も歩みましょう。               (吉持日輪生)