血による贖い ― 2016年12月18日
なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。 レビ記17章11節
今回から、レビ記の17章から22章までのくくりを取り扱います。このくくりでは、聖についての言及が多く、聖を汚してはならないことがしばしば命令されています。そして、聖についての言及は19章でピークを迎えます。19章では明らかに十戒と関連したかたちで聖について言及されています。
今までと同じように2回にわたって1つのくくりを見ますが、今回は17章に登場する「血」に注目します。
まず、17章は、血がいのちであることを示しています。そして、このいのちはヘブライ語では「ネフェシュ」が使われており、ネフェシュは他の箇所では「たましい」と訳されています。つまり、この箇所は、たましいが贖われるためには血が必要であることを教えているのです。さらに、いけにえの血はものや人を聖別する力があるとレビ記では教えられています(レビ8:15)。
これらに、キリストの贖いの原点があるのです。キリストは十字架によって血を流されました。それによって私たちは贖われています。そして、キリストの血による贖いは、私たちのたましいを贖い、私たちが聖別されていくことを意味しているのです。
以前に、『神さまの怒りを受ける人間』で、贖いとは、神の怒りをなだめることを意味していると扱いました。私たちは、キリストの血によって、神の怒りを受けることなく、聖なるものとなることができます。ただし、聖なるものとなっても、その内実においても聖なるものを目指さなければなりません。そのことが、18章以下に記されています。これらは、次回扱います。
洗礼を受けると聖餐式にあずかることができます。この聖餐式では、キリストの血を象徴するぶどう酒(ぶどう液)を飲みます。聖餐式の時、また日々の生活の中で、キリストの血による贖いがどのような意味を持つのか、その恵みを忘れずに歩みましょう。 参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)
今回から、レビ記の17章から22章までのくくりを取り扱います。このくくりでは、聖についての言及が多く、聖を汚してはならないことがしばしば命令されています。そして、聖についての言及は19章でピークを迎えます。19章では明らかに十戒と関連したかたちで聖について言及されています。
今までと同じように2回にわたって1つのくくりを見ますが、今回は17章に登場する「血」に注目します。
まず、17章は、血がいのちであることを示しています。そして、このいのちはヘブライ語では「ネフェシュ」が使われており、ネフェシュは他の箇所では「たましい」と訳されています。つまり、この箇所は、たましいが贖われるためには血が必要であることを教えているのです。さらに、いけにえの血はものや人を聖別する力があるとレビ記では教えられています(レビ8:15)。
これらに、キリストの贖いの原点があるのです。キリストは十字架によって血を流されました。それによって私たちは贖われています。そして、キリストの血による贖いは、私たちのたましいを贖い、私たちが聖別されていくことを意味しているのです。
以前に、『神さまの怒りを受ける人間』で、贖いとは、神の怒りをなだめることを意味していると扱いました。私たちは、キリストの血によって、神の怒りを受けることなく、聖なるものとなることができます。ただし、聖なるものとなっても、その内実においても聖なるものを目指さなければなりません。そのことが、18章以下に記されています。これらは、次回扱います。
洗礼を受けると聖餐式にあずかることができます。この聖餐式では、キリストの血を象徴するぶどう酒(ぶどう液)を飲みます。聖餐式の時、また日々の生活の中で、キリストの血による贖いがどのような意味を持つのか、その恵みを忘れずに歩みましょう。 参考文献:Nobuyoshi Kiuchi “ Leviticus ”
(吉持尽主)
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