定められた時に定められたことを行なう意味2017年07月23日

第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。     民数記29章1節

 民数記28章、29章は、定められた時におこなういけにえの規程が記されています。それを読みながら神さまが、イスラエルの民に課した「ルーティン」だと感じました。「ルーティン」とは、「決められた一連の動き」を表すことばです。最近ではスポーツ界でよく聞く言葉で、メジャーリーガーのイチロー選手のルーティンや、昨年はラグビーの五郎丸選手のルーティンが話題になりました。イチロー選手や、五郎丸選手が、ルーティンを取り入れる理由は、ストレスを減らすためであったり、プレーに集中するためであるようです。また行動科学の分野では「外的な刺激に惑わされずに自分の道を貫くための行動」と説明されます。
 さて民数記28章、29章に記されている「いけにえ規程」については、28章2節に次のように書かれています。「定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない」と。つまり28章、29章の「いけにえ規程」は、「毎日」行なうこと、「毎週」安息日に行なうこと、「第一の月」に行なうこと、そして今回の民数記29章では「第七の月」に行なう「ルーティン」が記されています。
 ルーティンの恵みは、先のスポーツ選手でも取り上げた通りで、イスラエルの民からストレスをなくすことであったり、日々の生活に集中するためと言えます。また行動科学から考えるならば、まさに外的な刺激に惑わされず神さまを信じ続ける道を貫くための大切な行動です。
 私たちも日々の生活の中で「ルーティンの心地よさ」を経験します。例えば毎朝短くてもデボーションができると、それだけで心が落ち着きます。主日礼拝も同様、礼拝を献げないで始まる週と、礼拝をもって始める週ではストレスのかかり具合が違います。
 「日々のデボーション」「毎週の礼拝」というルーティンが、ストレスを減らし、自らの道を貫く力になることを覚えつつ、これからもそれらのルーティンを大切にしていきましょう。(吉持日輪生)

神さまとの食事の交わり2017年07月16日

彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。
民数記28章3~4節

民数記28章には、様々ないけにえの規程が記されていますが、大きく分けると献げ物には3種類あります。その3種類とは「動物」「穀物」「注ぎのささげ物(飲み物)」です。例えば3節に「一歳の傷のない雄の子羊」と「動物」の献げ物が記され、さらに5節には「穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする」と「穀物」の献げ物が記されています。そして7節には「それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい」と「注ぎのささげ物(飲み物)」について記されています。
ここまで読まれて何かに気付かれたでしょうか。「動物(肉)」「穀物(パン)」「飲み物(強い酒)」。これは「おかず」「ごはん」「汁物」といった私たちが日々食する食事の3要素と重なります。つまり「いけにえ」とは、礼拝を献げる神さまとの食事の交わりの時であったと捉えることができます。そしてその流れの中に、イエスさまとの「最後の晩餐」や、また私たちの教会では毎月最初の主日礼拝の中で持つ「聖餐式」があるのです。
しかし、「最後の晩餐」においても、また私たちが行なう「聖餐式」においても、そこにあるのは「パンとぶどう酒」、すなわち「穀物の献げ物」と「注ぎの献げ物」だけです。「動物の献げ物」はどこへ行ってしまったのでしょうか。「最後の晩餐」における「動物の献げ物」はイエスさまであり、「聖餐式」における「動物の献げ物」もイエスさまであると同時に、イエスさまに贖われたクリスチャンひとりひとりと理解することができます。
8月の聖餐式の時、「パンとぶどう酒」を食しつつ、「私を神さまのために差し出します」と祈り、自らを「動物の献げ物」と重ねながら、聖餐の恵みに与るのも一つの聖餐式の持ち方です。今週も、自らを「生きた供え物」(ローマ12章1節)として、神さまに差し出しつつ歩みましょう。
(吉持日輪生)

モーセに学ぼう!2017年07月09日

ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。」     民数記27章12~13節
 
民数記27章は、上記聖書箇所に記されている通り、モーセが死に「あなたの民に加えられる」(13節)ことについて触れられています。しかも、これまで目指してきた「約束の地」、「わたし(神さま)がイスラエル人に与えた地」(12節)を、見るだけで、そこに入ることができないとも語られています。
その神さまからの語りかけに対して、モーセがとった行動が、15節以降です。

それでモーセは主に申し上げた。「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」(15~17節)

これまでのモーセは、神さまからの発言に対して大胆にやりとりをしていました。例えば出エジプト記32章で、アロンのもと民が金の子牛を造ってしまったことに対して、神さまが「わたしが彼らを絶ち滅ぼす」(出エジプト記32章10節)とモーセに告げると、モーセは「主に嘆願して」(出エジプト記32章11節)います。ですから今回も、神さまに「なんとか約束の地に入らせてください」と嘆願することもできたのでしょうが、そのような言動はありませんでした。そうではなく、自分の後継者をしっかり立ててくださいとお願いしています。
ここにモーセのイスラエル人への愛、また神さまへの従順さを見ることができます。また自らの目的達成よりも、神さまの目的達成を望む姿も見ることができます。
私たちもこのモーセの姿勢に学び、自らの目的達成を願うのではなく、神さまの目的達成を待ち望む者として歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

2回目の人口調査からわかること2017年07月02日

これがイスラエル人の登録された者で、六十万一千七百三十人であった。
民数記26章51節

民数記26章では、2回目の20歳以上で軍務につくことのできる者の人口調査が行なわれています。1回目の人口調査は、民数記1章でした。恐らく1回目と今回の2回目との間には40年ぐらいの時間が流れているかと思われます。40年という荒野での旅を通してイスラエルの民はどう変化したのでしょうか。
この表を見て気付かされることは40年という月日を経ての増減が、-1,820人ということです。これは、出エジプト前のエジプトでの人口増加を思うと40年で減少していることには驚かされます。その大きな原因は、民数記14章に見ることができます。「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ」(民数記14章29節)。つまり民数記1章の時に数えられた60万人は、みな倒れて死んだけれども、ほぼ同じ60万人の軍務につく人たちが、40年後にはいたのです。そのことを考えると印象が変わります。民数記14章だけを読むと、神さまの厳しさを感じますが、その一方で神さまは、同じ数の軍務につく男性を用意していてくださったのです。
このような神さまのご性質は、今も変わりません。私たちに厳しく接せられる神さまは、同時に祝福と恵みを豊かに備えてくださいます。コリント人への手紙第一10章13節にある通りです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」。
今週も真実な神さまとともに歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

神さまの創造の時から2017年06月25日

娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。
民数記25章2~3節 
 
民数記25章では、イスラエルの民がモアブの娘たちと関わり、影響され、娘たちの神々を拝むようになっていく姿が記されています。女性が持っている影響力の強さを感じます。けれどもこのような女性の特徴は、ここだけではありません。聖書の初めから、この天地が創造された時から見ることのできる特徴です。創世記2章で女性が造られる経緯が記されていますが、そこにはこのように書かれています。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう」(創世記2章23節a)。この表現は、男性にとって「女」が、「私の骨」「私の肉」と言いたくなる程、私(男性)の中に影響を与え、なくてはならない存在であることが、言い表わされている叫びとして読むことができます。さらに創世記3章では、その具体例として、神さまから食べてはならないと命じられていた木の実を、女に影響され、男が食べてしまう出来事が記されています。
このような創造の時からの「女」の特徴をふまえて民数記25章を読むと、創世記に記されているのと同様、イスラエルの民も、モアブの娘たちから影響を受け、異教の神バアル・ペオルを慕うようになっています。まさに女性の影響力は絶大です。
ですから私たちも、聖書を通して、男性は、女性に影響されやすい弱さがあることをよくわきまえつつ歩みましょう。また女性は、男性に影響を与えやすい神さまからのこの素晴らしい賜物が与えられていることを意識し、その賜物を、悪い影響を与えるために用いるのではなく、良い影響を与えるために用いるように心がけましょう。
今週も、男性、女性、それぞれの特徴を活かしつつ、神の家族としての歩みを共に進めていきましょう。(吉持日輪生)

忠実な預言者なのか、貪欲な預言者なのか2017年06月18日

彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。            ペテロの手紙第二2章15節 

民数記23章、24章には、預言者バラムによる4つの預言のことばが記されています。一つ目は23章7~10節、二つ目は23章18~24節、三つ目が24章3~9節、四つ目が24章15~19節です。そして、そのすべてがイスラエルを祝福することばでした。バラク王は、三つ目の預言のことばを聞いたところで怒りを燃やします。しかし怒りたくなる気持ちもわかります。23章に記されている二つの預言を聞くためにバラク王は、預言者バラムの要請により祭壇を築くところから始めています。しかも一つの祭壇ではなく七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を献げています。しかもそれを二つの場所で行なっています。つまりバラク王は、労力をかけ、時間をかけ、多くの犠牲をはらったにもかかわらず、聞くことのできた預言のことばは、イスラエルを祝福することばだけでした。そのことを考えるとバラク王が怒りに燃えるのもよくわかります。
一方、私たちが民数記23章、24章を読みながら感じることは、預言者バラムの忠実な姿です。バラク王を恐れることなく、まっすぐに神さまからの預言のことばを語る預言者バラムの姿には感銘を受けます。しかし、新約聖書における預言者バラムの評価は、正反対です。上記冒頭に引用したペテロの手紙第二では「不義の報酬を愛したベオルの子バラム」と紹介され、ユダの手紙11節では「利益のためにバラムの迷いに陥り」と貪欲な預言者バラムの姿が紹介されています。ではいったいどこに預言者バラムの貪欲さがあったのでしょうか。そこには、民数記23章、24章を通して現わされている「決めたことを変えない神さまの姿」が関係してきます。そのことを知っていた預言者バラムは、民数記22章で最初に神さまから「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。その民をのろってもいけない」(12節)と語られながら、バラク王の手厚い誘いを断わり続けることができず、バラク王について行ってしまっています。そこに「預言者バラムの貪欲さ」があったのでしょう。
私たちも、貪欲さから解放され、変わることのない神さまの約束のことばを、しっかり握りしめ、今週も神さまと共に歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

預言者とはどういう人か2017年06月11日

その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」              民数記22章20節 

民数記22章に登場する主要人物2人の名前がとても似ていて、内容を理解する上で惑わされます。ひとりはモアブの王でツィポルの子バラク。もうひとりはベオルの子バラムです。バラムについては、新約聖書ペテロの手紙第二2章16節で「預言者」と紹介されています。ここではバラク王と預言者バラム、と表現したいと思います。
さてバラク王は、エジプトから出てきたイスラエル人を脅威に思い(2、3節)、イスラエル人をのろってもらうため、預言者バラムのところへ使いを出します。預言者バラムへの神さまの答えは、はっきりしていました。12節「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ」と言われます。そのため預言者バラムは、いっしょに行きませんでした。しかしバラク王は諦めず、さらに「前よりも大ぜいの、しかも位の高いつかさたち」(15節)を遣わします。その時、預言者バラムに告げられたことばは「立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え」(20節)でした。そのため預言者バラムは出かけますが、途中ろばと預言者バラムとの不思議な出来事があり、その中で預言者バラムは再び主の使いから「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」(35節)と言われます。
結局、この22章では、このバラク王と預言者バラムのやりとりが記されているだけですが、この章ほど「預言者」の役割をしっかり言い表わしている箇所はありません。「わたしがあなたに告げることばだけを告げる」。これが預言者の役割でした。
コリント人への手紙第一13章に「預言の賜物」、また14章には「預言する者」ということばがありますが、「聖書」という書物が与えられている私たちにとって「聖書」以上に確かな預言のことばはありません。ですからこんにちの「預言の賜物」「預言する者」とは、「神さまから告げられたことば、すなわち聖書のことばを告げる人たち」となります。預言の賜物が与えられている方々が、ますます、しっかりとこの役割を担っていけるように祈りましょう。(吉持日輪生)

時にかなった助け2017年06月04日

民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」           民数記21章5節 
 
民数記21章を読むと、上記にある通り、再びイスラエルの民が食べ物のことでモーセに逆らっています。けれどもこれまでの民の逆らいと、民数記21章での民の逆らいとの間には、大きな違いがありました。その違いとは、民数記20章最後に記されているモーセの兄アロンの死です。
民数記20章23~26節「主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。『アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ』」。
つまり、これまでモーセは3歳年上のアロンと共に行動してきたのですが、民数記21章からは、アロン不在の中、民への対応をしなければなりませんでした。当然寂しく、心細く、戸惑ったことでしょう。そういう意味で民数記21章の民の逆らいは、これまでのものと違ったのです。
さて神さまは、兄アロン不在の中、モーセに「青銅の蛇を作る」ように指示しています。民数記21章9節「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」。そしてその「青銅の蛇」について、新約聖書では次のような言及があります。ヨハネの福音書3章14~15節「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」。
アロン不在で寂しく、心細く、戸惑っていたモーセに、神さまは、救い主イエスさまのイメージが重なる「青銅の蛇」を備えてくださいました。そして神さまは、今も、時にかなった助けを、私たちに与えてくださいます。その神さまに信頼して今週も歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

神さまのおことば通り2017年05月28日

モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」               民数記20章11~12節 

民数記20章では、再び「飲み水問題」が登場します。「再び」と書いたのは、エジプトを脱出し、荒野で旅をしていく中で、何度もこの問題が起っているからです。最初の記述は出エジプト記15章22~25節に「マラの水」問題が起こります。さらに出エジプト記17章でも、飲み水がない問題が起ります。その時、神さまはモーセに、このように語られています。「さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう」(出エジプト記17章6節)。モーセは、この出エジプト記17章の出来事を思い出しながら、今回の箇所でも岩を打ったのでしょう。しかし今回は、神さまから注意されるだけでなく、約束の地に入れないとまで言われてしまいます。同じことをしているのになぜでしょうか。実はよく読むとこの両者には大きな違いがあります。出エジプト記17章6節で神さまがはっきりと「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る」とおっしゃられ、それに対して、モーセもその通りに行いました。そして何も神さまから注意されませんでした。けれども民数記20章8節で神さまは「あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と言われていたのに、モーセは岩を二度打ちし、さらにはその後の10節の中で「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と、神さまが水を与えてくださることを、あたかもモーセ自身が出すかのように言っています。まさにこの2つ。「神さまの言われた通りしなかったこと」と「神さまが与えてくださる水を、モーセが与えたかのように言ったこと」。このことが約束の地に入れない原因となったのです。
私たちも、神さまのみことばの約束を手に入れるためには、このことから学ぶ必要があります。神さまが言われた通りに行うこと。そして神さまの御業を、自分の手柄にしないことです。今週も、神さまのおことばに忠実に歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

汚れからきよめられる方法2017年05月21日

①汚れた者が触れるものは、何でも汚れる。その者に触れた者も夕方まで汚れる。
                          民数記19章22節
②これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、主への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。                  レビ記6章17~18節

民数記19章には、「汚れ」についてと、「汚れ」からきよめられる方法について記されています。その19章最後に記されていることばが、上記①の聖書箇所です。これが旧約聖書時代の「汚れ」に対する考え方です。「汚れた人」が触れた「物」も汚れ、「汚れた物」に触れた「人」も汚れます。つまり「汚れ」は伝染するのです。これが旧約聖書時代の「汚れ」への考え方でした。その「汚れ」の伝染に対して、旧約聖書が記しているもう一つの特徴は、「最も聖なるもの」に「触れるものはみな、聖なるものとなる」という、上記②の聖書箇所の考え方です。
そしてこの考え方は、新約聖書時代にも受け継がれ、「最も聖なるもの」であるイエスさまに触れるものは、「聖くなる」という出来事が、いくつも記されています。その一つとしてマルコ6章56節「イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた」。
そしてこんにちの私たちも、「最も聖なるもの」である「キリストのからだ」に触れることで汚れからきよめられます。ですから神さまの一方的な恵みで、私たちが「最も聖なるもの」である「キリストのからだ」の一部とされていることは、あらゆる汚れから解放され、きよめられていることの証しです。
私たちの「きよさ」の根拠は、自分の行い、自分の考えによるものではありません。私たちの「きよさ」の唯一の根拠は、「最も聖なる」「キリストのからだ」の一部にされていることだけです。「最も聖なる」「キリストのからだ」の一部とされている者として、今週も喜びをもって歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)