共にいてくださる神さま2017年11月12日

あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。                  申命記9章7節
私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。                          申命記9章24節 
 
 上記の聖書箇所それぞれの最後は、「あなたがたは主に逆らいどおしであった」(7節)、「あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた」(24節)です。
 このことばに、イスラエルの荒野での40年間が凝縮されています。「主に逆らいどおし」(7節)の40年間であり、「いつも、主にそむき逆らってきた」(24節)40年間でした。
 けれども神さまは、そのようなイスラエルの民を、見捨てることなく、見放すことなく、共に歩み続けられたのです。これが父なる神さまの姿です。
 さて私たちは、どうでしょうか。それぞれの信仰の歩みを振り返る時、イスラエルの民と重なります。私たちも、「主に逆らいどおし」(7節)、「いつも、主にそむき逆らって」(24節)きました。けれども神さまは、そのような私たちを見捨てることなく、見放すことなく、共に歩み続けてくだるのです。
 イエスさまのお言葉を思い出します。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)。出エジプト時代のイスラエルの民と神さまとの歩みを思い返す時、このイエスさまのお言葉も、「主に逆らいどおし」(7節)、「いつも、主にそむき逆らってきた」(24節)あなたがたと「世の終わりまで、いつもともにいます」と読むことができます。
主に逆らうことを知っておられる神さまが、共にいてくださるからこそ、私たちは、そのことに気付かされた時、すぐに神さまの前に出ることができます。
今週も、主に逆らっている自分に気付かされたならば、すぐに神さまの前に出て、悔い改めて、再スタートしていきましょう。(吉持日輪生)

主の口から出るすべてのもので生きる2017年11月05日

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。                    申命記8章3節 
 
 上記の聖書箇所の後半「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」は、イエスさまの公生涯最初の悪魔からの試みの中で、イエスさまが、旧約聖書から引用している言葉としてとても有名です。
 イエスさまが、四十日四十夜断食した後の空腹の中、悪魔が「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」(マタイ4章3節、ルカ4章3節)と試みたのに対して、イエスさまが悪魔に言われた言葉が、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節、ルカ4章4節)でした。
 つまりこのお言葉の背景には、イスラエルの荒野での40年間の旅と、その間、天から与えられた食物マナのことが、あるのです。
 イスラエルの民が、四十年という歳月を要しながら、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」と学び、イエスさまも四十日四十夜の断食を通して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」ことを学んでいることを思う時、私たちがこの真理を学ぶのにも、とてもたくさんの時間が必要であると思わされます。
 あなたが経験している苦しみも、物心両面の飢え渇きも、私たちが、イスラエルの民のように、また救い主イエスさまのように「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」ことを学ぶために必要なプロセスなのです。
 今週も「主の口から出るすべてのもので生きる」日々を歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

神さまの選びの視点2017年10月29日

主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。                                               申命記7章7節
 
 上記の聖書箇所は、私の好きな聖書箇所の一つです。神さまが、イスラエルという民を選ばれた理由を述べているところです。「あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」。
 ここに神さまの選びの視点を見ることができます。神さまの目は、数の多さには惑わされないだけでなく、逆に数の少なさに目を留めてくださるのです。同じような神さまの姿を他の聖書箇所でも見ることができます。サムエル記第一16章7節で、預言者サムエルが、エッサイの子エリアブを見て「確かに、主の前に油をそそがれる者だ」と思った時、神さまがサムエルに言われたおことばです。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」。さらに新約聖書の福音書でも、イエスさまを通して神さまの視点の具体例が挙げられています。マルコ12章41~42節「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる」。紙幣のない時代、投げ入れていたのは硬貨での大金です。金属製の献金箱に投げ入れる時の音は凄まじかったことでしょう。そしてその音に反応して、人々の視線が献げた人に向けられることを彼らは喜びとしていたのでしょう。しかし、イエスさまは違いました。そのような中、イエスさまの目は、硬貨2枚を投げ入れた貧しいやもめに向けられていました。
 私たちは、神さまの前に取るに足りない者、小さい者、欠けだらけの者ですが、だからこそ神さまは、私を選び、私に目を留めてくださっているのです。
 そして、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節a)と語ってくださるのです。その神さまからのまなざしに今週も慰められ、励まされながら歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

シェマー・イスラエル2017年10月22日

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
                             申命記6章4節
 上記の聖書箇所は、「シェマー・イスラエル」と呼ばれ、イスラエルの人たちが最も愛し、口にした聖書のことばであり、祈りのことばです。
 イスラエルの人たちは、5節「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を実践し、6節「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい」も実践し、7節「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」の教えの通り歩みました。
 日本語の「行住坐臥」を辞書で調べると、仏教用語として紹介されていますが、シルクロードを通ってイスラエル人が移動し、ユダヤ教もそれに合わせて広がったことを思う時、この4字熟語の背後に申命記6章7節の言葉があるように感じるのは、私だけではないと思います。
 申命記6章8節、9節では、この「シェマー・イスラエル」を「しるしとしてあなたの手に結びつけ」「記章として額の上に置きなさい」と教えていますが、これも仏具の一つと言われる「数珠」や、また様々な祈願を書いた「はちまき」につながるように思います。
 さて皆さんは「主の祈り」を献げる時、「次は何だったっけ」と迷うことはないでしょうか。私は、迷わないように指を折りながらお祈りしています。「主の祈り」は、8つの文で成り立っています。その三(みっ)つ目が「御(み)国を来たらせたまえ」、五(ご)番目が、ご飯のことを祈る「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と、この二つを数字の語呂と合わせて途中を確認し、「8」を数えたところで「国と・・・」となれば、全文祈れた確認ができ、安心して、力強く「アーメン」と祈り終えることができます。まさにカトリックのロザリオや、数珠と同じやり方です。
 みなさんも、「行住坐臥」神さまの教えを覚え、確認するための工夫をしながら、それぞれの取り組みで、良いものは、みんなで共有し、私たちの信仰生活をより身近なものとしていきましょう。(吉持日輪生)

十戒-申命記5章と出エジプト記20章を比較して-2017年10月15日

安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
                     申命記5章12節
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 出エジプト記20章8節 

 申命記5章6節から「十戒」が記されています。「十戒」が記されている聖書箇所として、皆さんの記憶に最も強く残っているのは出エジプト記20章でしょう。けれども申命記5章にもしっかり「十戒」が記されています。しかも出エジプト記20章と申命記5章のそれぞれの「十戒」を比較すると、とても興味深いものが見えてきます。
 第1戒から第3戒までの、神さまに関する戒めの部分は、出エジプト記も申命記も全く同じなのですが、第4戒以降(第6戒「殺してはならない」、第7戒「姦淫してはならない」、第8戒「盗んではならない」以外)の私たちの生き方に関する内容の所は、様々な違いが生じています。そのことから、神さまに対する厳格な信仰姿勢を感じると共に、私たちの生き方に関しての緩やかさも感じられます。
 例えば上記第4戒、出エジプト記20章では「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」となっていますが、申命記5章では「安息日を守って、これを聖なる日とせよ」となっています。つまり最初は「覚えて」だったのが、言い伝えられていく中で、よりわかりやすい、理解しやすい「守って」に変化したと考えられます。また同じ第4戒の中で、出エジプト記20章では「家畜」と表現されているところが、申命記5章では「あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も」と変化しています。これも時代が経つにつれ、「家畜」の種類が増え、具体的に明記するように変化したと考えられます。そして第10戒では、出エジプト記20章において「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻・・・」となっていますが、申命記5章では「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家・・・」と変わっています。これも、「隣人の家」を欲しがる問題より、「隣人の妻」を欲しがる問題が多い中で、入れ替わったと考えられます。
 このように2箇所の「十戒」を比較する中で、神さまに関しては、時代や、状況が変わっても厳格に唯一の真の神のみを敬い、信じることを教えられると同時に、私たち信仰者の生き方に対しては、時代や、社会状況の変化の中で緩やかに対応していく姿勢を感じ取ることができます。今週も、唯一の真の神さまだけを見上げ、生活については祈りつつ知恵をいただいて歩ませていただきましょう。
(吉持日輪生)

おきてと定め2017年10月08日

 今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。
           申命記4章1節 

 申命記4章には「おきてと定め」という言葉が、5回(1節、5節、8節、14節、45節)登場します。1節の言葉は、上記に記しましたので、その他の言葉を以下に記すと、
5節。見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、入って行って、所有しようとしているその地の真ん中で、そのように行うためである。
8節。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。
14節。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行うためであった。
45節。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。
 聖書全体でも「おきてと定め」と使われているのは24箇所ですから、申命記4章の5回が、多いことがわかります。
 さらに2節では「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない」とあり、「おきてと定め」に対する厳格さも読み取ることができます。
 そしてこの「おきてと定め」に対する姿勢、取り組みは、今日の私たちにとっては「聖書」になります。
 ですから私たちも、聖書のことばに「つけ加える」ことも、「減らす」こともなく、今週も「さとしとおきてと定め」「聖書」を大切にしながら、そこに記されていることを守り行う者として歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

神さまと私の心が通う祈り2017年10月01日

しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」             申命記3章26節 

 申命記3章23節「私は、そのとき、主に懇願して言った」とあるように、モーセは神さまに「どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください」と切に願いますが、神さまの返事は、上記引用箇所の通り。「もう十分だ」「もう二度とわたしに言うな」と、強く拒否されています。
 けれども私は、この神さまの「もう十分だ」「もう二度とわたしに言うな」の言葉の背後には、神さまの心の痛み、葛藤を感じます。出エジプトのプロセスを共に歩んできた神さまは、モーセの頑張りも、苦しみも、悲しみも、全てを知っておられるからこそ、モーセの「約束の地を見たい」との切なる思いは、痛いほどよくわかっていたことでしょう。ですからこれ以上懇願されることは、神さまも辛いからこそ「もう二度と言うな」と言われたように思うのです。そしてそのことを裏付けるものが、27節にあります。27節「ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ」。ヨルダンを渡ることはできないけれども、モーセの切なる願いの一部「ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください」は叶えてくださったのです。
 モーセと神さまとのやりとりをこのように読ませていただくと、神さまと心が通う祈りを献げることの素晴らしさを教えられます。信仰の父アブラハムも創世記18章で神さまに「もしや、その町の中に五十人の正しい者が」(24節)から始まって、「四十五人」(28節)、「四十人」(29節)、「三十人」(30節)、「二十人」(31節)、「十人」(32節)と少しずつ正しい人の人数を下げて祈る姿の内にも、神さまと心が通う祈りを見ます。
 私たちも、今週、神さまと心が通う祈りを献げていきましょう。
(吉持日輪生)

神さまの備えがあるから一歩先へ2017年09月24日

アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである──
申命記2章11~12節

 向きを変えて出発し、荒野の旅を続けていく中、申命記2章には、神さまの備えがあったことが記されています。その一つが、上記聖書箇所ですが、これが神さまの愛の業であることは、次の聖書箇所と合わせて読むと、よりはっきりします。民数記13章28節「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました」。民数記13章33節「そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」。これは、約束の地を探りに行った12人の偵察隊の内10人の言葉でした。「アナク人」、または「ネフィリム人のアナク人」とは、先程の民数記聖書箇所から巨人であったことが伺えますが、イスラエル人は、そのような巨人が住む地に入るのは無理と決め込み、約束の地に入りませんでした。
 それから40年が経ち、いよいよ約束の地に入る時、上記聖書箇所や、申命記2章20~21節「──そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた」を読む時、恐ろしいと思っていたアナク人のような人たちを、神さまがすでに取り除いていてくださったことがわかります。
 神さまは、私たちにとって恐ろしいと思える問題課題を取り除くことのできるお方です。そのことを知る時、私たちも、向きを変えて出発するその先に、どんなに恐ろしいものがあったとしても、神さまが、それを取り除いてくださるとの信仰を持って、前進することができます。今週も、主に信頼して、一歩先へと踏み出して行きましょう。(吉持日輪生)

約束を信じて2017年09月17日

 向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。              申命記1章7節 

 「向きを変えて、出発せよ」(1章7節)、この言葉に励まされて、どれだけ多くの方々が、時代を越え、民族を越えて、新たな出発をしてきたことでしょう。
 私たちもこれまでこの紙面を通して創世記から始まり、1回1章を基本に読み進めてきました。そして先週でついに「民数記」を読み終え、今日から「申命記」に入ります。
 さて申命記1章に記されているイスラエルの民が、「向きを変えて、出発した」点は、組織の改編でした。出エジプト記18章で、モーセのしゅうとイテロのアドバイスで、イスラエルの民の中から「千人の長」「百人の長」「五十人の長」「十人の長」を選ぶようにしてきましたが、申命記1章からは、各部族ごとに「千人の長」「百人の長」「五十人の長」「十人の長」を選ぶようにと命じられています。
 そしてこの組織改編は、約束の地に入り、その地で民が増え広がることを前提にしていました。11節「──どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように──」とある通り、さらなる人口増加を考えての組織改編でした。
 私たちも、主にあって「向きを変えて、出発する」点があるとするならば、神さまは、必ず日本のキリスト教界を祝福してくださるとの約束を信じ、増やされた時のことを考えて教会の組織を考え、教会活動計画を立てていくことでしょう。
 申命記を読み進めつつ、「向きを変えて、出発」できるところは、できるところから始めていきたいものです。神さまの民が、私たちの教会にもたくさん呼び集められることを信じ、期待して・・・。(吉持日輪生)

「数」から「賜物」へ2017年09月10日

こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。
                                民数記36章9節 

 民数記もついに最後の章、36章になりました。この章を読み終えての感想は、とても淡々とした終わり方だなあというものでした。けれども一方で、今から数千年前の人々も、現代の人たちと同じような問題に直面していたんだなあとも思わされました。3節「もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります」と、相続地減少を心配しています。
 そして、その心配の根底にある思いは、2節「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています」。つまり神さまから命じられ、神さまから与えられた相続地の減少を危惧していることがわかります。
 さて、この淡々と記されている民数記36章から私たちが学べることは、何でしょうか。その一つは、神さまが私たちひとりひとりに与えてくださっている相続地(賜物)が減ることへの関心でしょう。民の数を数えるところから始まった民数記、そこからは「数」への関心が見えてきますが、最後は、「数」ではなく「相続地(賜物)」に関心が向けられています。神さまから与えられた相続地に対して上記聖書箇所でも「堅く守らなければならない」と書かれているように、私たちも神さまから与えられている相続地(賜物)を堅く守る責任があることを教えられます。
 ローマ人への手紙11章29節を思い出します。「神の賜物と召命とは変わることがありません」。今週も、神さまから与えられている賜物をしっかり管理し、かつフルに活用し、地の塩、世の光として歩ませていただきましょう。
                           (吉持日輪生)