おきては一つ ― 2017年03月12日
もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、過越のいけにえのおきてと、その定めとに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。
民数記9章14節
民数記9章は、1節に「エジプトの国を出て第二年目の第一月」とあり、強国エジプトから、また奴隷状態から解放されて1年が経ち、2年目に入る時のことが記されています。そしてイスラエルの人たちは、1年前に神さまから命じられた通り、出エジプトの出来事を思い返しつつ「過越のいけにえ」を献げるのですが、その中で問題が生じます。そのことが6節に記されています。6節「人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々」への対応問題です。それに関して、神さまはモーセを通して、1ヶ月後に献げれば良いとの答えを出され、この問題は解決しますが、それに付随して「在留異国人」と「在留異国人の子どもたち」の「過越のいけにえ」について14節以降触れられていきます。それに関しては、上記にある通りイスラエル人であろうと、異邦人であろうと「おきては一つ」と力強く神さまが答えておられます。
さて「出エジプト」の出来事は、イエス・キリストの十字架以降の信仰者にとっては、イエスさまの十字架による救いの「型(モデル)」として捉えることができます。つまり強国のような「罪の支配」、「罪の奴隷」から、イエスさまによって救い出されたことと重なるということです。そうするとこの「過越のいけにえ」は、私たちにとっての「聖餐」と重なることになるでしょう。
「おきては一つ」とあるように、イスラエル人が「過越のいけにえ」を大切にしていたように、私たちも「聖餐」を大切にし、また「聖餐」に与りながら、自らが「罪の支配」「罪の奴隷」からイエスさまによって解放されたことを喜ぶ時としましょう。また私たちも、出エジプトの出来事を思い返し、神さまの力強さ、そして必ず「約束の地(御国)」へと導いていただける希望を思い出しつつ、毎月第一主日の礼拝の中でもたれる「聖餐」を大切にしていきましょう。(吉持日輪生)
民数記9章14節
民数記9章は、1節に「エジプトの国を出て第二年目の第一月」とあり、強国エジプトから、また奴隷状態から解放されて1年が経ち、2年目に入る時のことが記されています。そしてイスラエルの人たちは、1年前に神さまから命じられた通り、出エジプトの出来事を思い返しつつ「過越のいけにえ」を献げるのですが、その中で問題が生じます。そのことが6節に記されています。6節「人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々」への対応問題です。それに関して、神さまはモーセを通して、1ヶ月後に献げれば良いとの答えを出され、この問題は解決しますが、それに付随して「在留異国人」と「在留異国人の子どもたち」の「過越のいけにえ」について14節以降触れられていきます。それに関しては、上記にある通りイスラエル人であろうと、異邦人であろうと「おきては一つ」と力強く神さまが答えておられます。
さて「出エジプト」の出来事は、イエス・キリストの十字架以降の信仰者にとっては、イエスさまの十字架による救いの「型(モデル)」として捉えることができます。つまり強国のような「罪の支配」、「罪の奴隷」から、イエスさまによって救い出されたことと重なるということです。そうするとこの「過越のいけにえ」は、私たちにとっての「聖餐」と重なることになるでしょう。
「おきては一つ」とあるように、イスラエル人が「過越のいけにえ」を大切にしていたように、私たちも「聖餐」を大切にし、また「聖餐」に与りながら、自らが「罪の支配」「罪の奴隷」からイエスさまによって解放されたことを喜ぶ時としましょう。また私たちも、出エジプトの出来事を思い返し、神さまの力強さ、そして必ず「約束の地(御国)」へと導いていただける希望を思い出しつつ、毎月第一主日の礼拝の中でもたれる「聖餐」を大切にしていきましょう。(吉持日輪生)
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