聖書から学べること ― 2017年03月05日
あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。民数記8章14節
「レビ人はわたしのものとなる」(14節b)。このテーマは、民数記3章にも記されていました。しかし民数記3章では、「レビ人はわたしのもの」とあわせて「わたしが主である」が記されています。
民数記3章13節b「彼ら(レビ人)はわたしのものである。わたしは主である」。
民数記3章45節b「レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは主である」。
一方民数記8章では「レビ人はわたしのもの」と共に「わたしが主である」は登場せず、代わりに「奉献物」ということばが登場します。
民数記8章11節「アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる」。
民数記8章13節b「彼ら(レビ人)を奉献物として主にささげる」。
民数記8章15節b「彼ら(レビ人)を奉献物としてささげなければならない」。
民数記8章21節b「そうしてアロンは彼ら(レビ人)を奉献物として主の前にささげた」。
この表現の違いに目を留めると民数記3章は、「献げられる側」神さまの視点が強調されていて、民数記8章は、「献げる側」、つまりイスラエル人の視点に重きが置かれているように感じます。
同じような表現の違いを新約聖書の中にも見ることができます。イエスさまは、マタイ22章21節bで「神のものは神に返しなさい」と言われ、また第2コリント9章7節aでは「(献金は)ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」とあります。これらも前者は、「献げられる側」つまり神さまの側の表現で、後者は、「献げる側」私たちの側の表現と言えます。
私たちは、聖書を通して神さまの思いを知り、また聖書を通して神さまの前を歩む信仰者の姿勢を学びます。今週も、聖書を通して神さまの思いを知り、聖書を通して神さまの前を歩む信仰者の姿勢を学びつつ歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
「レビ人はわたしのものとなる」(14節b)。このテーマは、民数記3章にも記されていました。しかし民数記3章では、「レビ人はわたしのもの」とあわせて「わたしが主である」が記されています。
民数記3章13節b「彼ら(レビ人)はわたしのものである。わたしは主である」。
民数記3章45節b「レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは主である」。
一方民数記8章では「レビ人はわたしのもの」と共に「わたしが主である」は登場せず、代わりに「奉献物」ということばが登場します。
民数記8章11節「アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる」。
民数記8章13節b「彼ら(レビ人)を奉献物として主にささげる」。
民数記8章15節b「彼ら(レビ人)を奉献物としてささげなければならない」。
民数記8章21節b「そうしてアロンは彼ら(レビ人)を奉献物として主の前にささげた」。
この表現の違いに目を留めると民数記3章は、「献げられる側」神さまの視点が強調されていて、民数記8章は、「献げる側」、つまりイスラエル人の視点に重きが置かれているように感じます。
同じような表現の違いを新約聖書の中にも見ることができます。イエスさまは、マタイ22章21節bで「神のものは神に返しなさい」と言われ、また第2コリント9章7節aでは「(献金は)ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」とあります。これらも前者は、「献げられる側」つまり神さまの側の表現で、後者は、「献げる側」私たちの側の表現と言えます。
私たちは、聖書を通して神さまの思いを知り、また聖書を通して神さまの前を歩む信仰者の姿勢を学びます。今週も、聖書を通して神さまの思いを知り、聖書を通して神さまの前を歩む信仰者の姿勢を学びつつ歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
おきては一つ ― 2017年03月12日
もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、主に過越のいけにえをささげようとするなら、過越のいけにえのおきてと、その定めとに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。
民数記9章14節
民数記9章は、1節に「エジプトの国を出て第二年目の第一月」とあり、強国エジプトから、また奴隷状態から解放されて1年が経ち、2年目に入る時のことが記されています。そしてイスラエルの人たちは、1年前に神さまから命じられた通り、出エジプトの出来事を思い返しつつ「過越のいけにえ」を献げるのですが、その中で問題が生じます。そのことが6節に記されています。6節「人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々」への対応問題です。それに関して、神さまはモーセを通して、1ヶ月後に献げれば良いとの答えを出され、この問題は解決しますが、それに付随して「在留異国人」と「在留異国人の子どもたち」の「過越のいけにえ」について14節以降触れられていきます。それに関しては、上記にある通りイスラエル人であろうと、異邦人であろうと「おきては一つ」と力強く神さまが答えておられます。
さて「出エジプト」の出来事は、イエス・キリストの十字架以降の信仰者にとっては、イエスさまの十字架による救いの「型(モデル)」として捉えることができます。つまり強国のような「罪の支配」、「罪の奴隷」から、イエスさまによって救い出されたことと重なるということです。そうするとこの「過越のいけにえ」は、私たちにとっての「聖餐」と重なることになるでしょう。
「おきては一つ」とあるように、イスラエル人が「過越のいけにえ」を大切にしていたように、私たちも「聖餐」を大切にし、また「聖餐」に与りながら、自らが「罪の支配」「罪の奴隷」からイエスさまによって解放されたことを喜ぶ時としましょう。また私たちも、出エジプトの出来事を思い返し、神さまの力強さ、そして必ず「約束の地(御国)」へと導いていただける希望を思い出しつつ、毎月第一主日の礼拝の中でもたれる「聖餐」を大切にしていきましょう。(吉持日輪生)
民数記9章14節
民数記9章は、1節に「エジプトの国を出て第二年目の第一月」とあり、強国エジプトから、また奴隷状態から解放されて1年が経ち、2年目に入る時のことが記されています。そしてイスラエルの人たちは、1年前に神さまから命じられた通り、出エジプトの出来事を思い返しつつ「過越のいけにえ」を献げるのですが、その中で問題が生じます。そのことが6節に記されています。6節「人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々」への対応問題です。それに関して、神さまはモーセを通して、1ヶ月後に献げれば良いとの答えを出され、この問題は解決しますが、それに付随して「在留異国人」と「在留異国人の子どもたち」の「過越のいけにえ」について14節以降触れられていきます。それに関しては、上記にある通りイスラエル人であろうと、異邦人であろうと「おきては一つ」と力強く神さまが答えておられます。
さて「出エジプト」の出来事は、イエス・キリストの十字架以降の信仰者にとっては、イエスさまの十字架による救いの「型(モデル)」として捉えることができます。つまり強国のような「罪の支配」、「罪の奴隷」から、イエスさまによって救い出されたことと重なるということです。そうするとこの「過越のいけにえ」は、私たちにとっての「聖餐」と重なることになるでしょう。
「おきては一つ」とあるように、イスラエル人が「過越のいけにえ」を大切にしていたように、私たちも「聖餐」を大切にし、また「聖餐」に与りながら、自らが「罪の支配」「罪の奴隷」からイエスさまによって解放されたことを喜ぶ時としましょう。また私たちも、出エジプトの出来事を思い返し、神さまの力強さ、そして必ず「約束の地(御国)」へと導いていただける希望を思い出しつつ、毎月第一主日の礼拝の中でもたれる「聖餐」を大切にしていきましょう。(吉持日輪生)
神さまがくださるしあわせは大きい ― 2017年03月19日
さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」
彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」
そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」 民数記10章29~32節
「ミデヤン人レウエル」この人を覚えているでしょうか。モーセが40歳の時、エジプトにおいて個人的な思いで始めた同胞イスラエル人救済の取り組みに失敗し、ミデヤンの地に逃れた時に出会った家族の長がレウエルでした(出エジプト記2章)。そしてモーセは、そのレウエルの娘と結婚し、子どもが与えられます。その後40年間、モーセはミデヤンの地でレウエル家族と一緒に住み、その地域を知るわけですが、その地とは、まさに出エジプトで旅をする地域でした。
しかし40年間、住み慣れた地域でも、モーセはレウエルの子ホバブに「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから」と助けを求めています。それと同時に、お世話になったレウエル家族に「主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです」と、神さまからのしあわせを受けてもらいたいとの思いも見うけられます。
「主が私たちに下さるしあわせ」は、小さなものではありません。イエスさまもこのように言われています。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません」(マタイ10章42節)。
クリスチャンであるあなたと共に歩む家族のひとりひとりの上にも、神さまからのしあわせ(恵み)と報いがあることを信じて今週も歩みましょう。(吉持日輪生)
彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」
そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」 民数記10章29~32節
「ミデヤン人レウエル」この人を覚えているでしょうか。モーセが40歳の時、エジプトにおいて個人的な思いで始めた同胞イスラエル人救済の取り組みに失敗し、ミデヤンの地に逃れた時に出会った家族の長がレウエルでした(出エジプト記2章)。そしてモーセは、そのレウエルの娘と結婚し、子どもが与えられます。その後40年間、モーセはミデヤンの地でレウエル家族と一緒に住み、その地域を知るわけですが、その地とは、まさに出エジプトで旅をする地域でした。
しかし40年間、住み慣れた地域でも、モーセはレウエルの子ホバブに「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから」と助けを求めています。それと同時に、お世話になったレウエル家族に「主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです」と、神さまからのしあわせを受けてもらいたいとの思いも見うけられます。
「主が私たちに下さるしあわせ」は、小さなものではありません。イエスさまもこのように言われています。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません」(マタイ10章42節)。
クリスチャンであるあなたと共に歩む家族のひとりひとりの上にも、神さまからのしあわせ(恵み)と報いがあることを信じて今週も歩みましょう。(吉持日輪生)
「今」との違い! ― 2017年03月26日
さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
民数記11章1節
民数記11章は、いきなり「不平」「つぶやき」から始まります。上記の民数記11章1節に「さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた」とある通りです。そしてこの冒頭からの「不平」「つぶやき」を読みながら感じることは、民数記10章とのギャップです。民数記10章では「神さまがくださるしあわせの大きさ、豊かさ」が取り上げられていましたが、それがいきなり11章では「不平」「つぶやき」へと変わってしまっています。さらに民数記11章には、その後もイスラエルの民の「不平」「つぶやき」が、様々な表現をもって記されています。「民はモーセに向かってわめいた」(2節)、「ああ、肉が食べたい」(4節)、「それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた」(10節)などなど。
しかし、このような変化、展開に親しみを覚えるのも事実です。なぜなら私たちも「しあわせ」な日々を送りながら、一瞬にして「つぶやき」の日々へと変化してしまうからです。けれどもこの時代の人たちと私たちとの大きな違いは、イエスさまの十字架です。まだイエスさまの十字架が、なされていない民数記の時代は、つぶやく民に、神さまは激しく怒りを現わされています。「主はこれを聞いて怒りを燃やし」(1節)、「主の怒りは激しく燃え上がり」(10節)、「主の怒りが民に向かって燃え上がり」(33節)。
神さまは、今も「不平」に、そして「つぶやき」に、怒りを現わされるお方です。しかし私たちには、イエスさまの十字架があるゆえに、神さまの怒りを受けることから守られています。聖書にはこのように書かれています。ローマ8章34節「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」。
今週も、神さまの御前にあって「不平」「つぶやき」から遠く離れ、神さまを賛美し、神さまに感謝を献げつつ歩みましょう。(吉持日輪生)
民数記11章1節
民数記11章は、いきなり「不平」「つぶやき」から始まります。上記の民数記11章1節に「さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた」とある通りです。そしてこの冒頭からの「不平」「つぶやき」を読みながら感じることは、民数記10章とのギャップです。民数記10章では「神さまがくださるしあわせの大きさ、豊かさ」が取り上げられていましたが、それがいきなり11章では「不平」「つぶやき」へと変わってしまっています。さらに民数記11章には、その後もイスラエルの民の「不平」「つぶやき」が、様々な表現をもって記されています。「民はモーセに向かってわめいた」(2節)、「ああ、肉が食べたい」(4節)、「それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた」(10節)などなど。
しかし、このような変化、展開に親しみを覚えるのも事実です。なぜなら私たちも「しあわせ」な日々を送りながら、一瞬にして「つぶやき」の日々へと変化してしまうからです。けれどもこの時代の人たちと私たちとの大きな違いは、イエスさまの十字架です。まだイエスさまの十字架が、なされていない民数記の時代は、つぶやく民に、神さまは激しく怒りを現わされています。「主はこれを聞いて怒りを燃やし」(1節)、「主の怒りは激しく燃え上がり」(10節)、「主の怒りが民に向かって燃え上がり」(33節)。
神さまは、今も「不平」に、そして「つぶやき」に、怒りを現わされるお方です。しかし私たちには、イエスさまの十字架があるゆえに、神さまの怒りを受けることから守られています。聖書にはこのように書かれています。ローマ8章34節「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」。
今週も、神さまの御前にあって「不平」「つぶやき」から遠く離れ、神さまを賛美し、神さまに感謝を献げつつ歩みましょう。(吉持日輪生)
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