「今」との違い!2017年03月26日

さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
民数記11章1節

民数記11章は、いきなり「不平」「つぶやき」から始まります。上記の民数記11章1節に「さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた」とある通りです。そしてこの冒頭からの「不平」「つぶやき」を読みながら感じることは、民数記10章とのギャップです。民数記10章では「神さまがくださるしあわせの大きさ、豊かさ」が取り上げられていましたが、それがいきなり11章では「不平」「つぶやき」へと変わってしまっています。さらに民数記11章には、その後もイスラエルの民の「不平」「つぶやき」が、様々な表現をもって記されています。「民はモーセに向かってわめいた」(2節)、「ああ、肉が食べたい」(4節)、「それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた」(10節)などなど。
しかし、このような変化、展開に親しみを覚えるのも事実です。なぜなら私たちも「しあわせ」な日々を送りながら、一瞬にして「つぶやき」の日々へと変化してしまうからです。けれどもこの時代の人たちと私たちとの大きな違いは、イエスさまの十字架です。まだイエスさまの十字架が、なされていない民数記の時代は、つぶやく民に、神さまは激しく怒りを現わされています。「主はこれを聞いて怒りを燃やし」(1節)、「主の怒りは激しく燃え上がり」(10節)、「主の怒りが民に向かって燃え上がり」(33節)。
神さまは、今も「不平」に、そして「つぶやき」に、怒りを現わされるお方です。しかし私たちには、イエスさまの十字架があるゆえに、神さまの怒りを受けることから守られています。聖書にはこのように書かれています。ローマ8章34節「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」。
今週も、神さまの御前にあって「不平」「つぶやき」から遠く離れ、神さまを賛美し、神さまに感謝を献げつつ歩みましょう。(吉持日輪生)

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