「悪」「罪」の影響の大きさ2022年11月13日

アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行わず、イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもに火の中を通らせることまでした。
         列王記第二 16章2~3節

 列王記第二16章に記されている内容は、ユダ(南王国)のことです。しかし、その内容は、これまでイスラエル(北王国)のこととして記されてきたのと同じような「主の目にかなうことを行わなかった」事柄が記されています。さらに興味深いことは、上記聖書箇所に記されているアハズ王の父ヨタム王について、「彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った」(列王記第二15章34節)と記されていることです。つまりアハズ王のお父さまも、さらにはおじいさまも、「主の目にかなうことを行っていた」にもかかわらず、悪は忍び寄り、アハズ王の時代には「主の目にかなうことを行わず」となってしまったのです。
 なぜでしょうか。その要因の一つと考えられることが、このように記されています。

彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。彼は主の宮の上の門を建てた。

                      列王記第二15章34~35節

 先程引用した列王記第二15章34節も含めて35節までを引用しましたが、ここに書かれている通り、アハズ王の父ヨタム王は「主の目にかなうことを行った」のですが、「高き所(異教の神さまの祭壇)は取り除きません」でした。
 おそらくアハズ王は、その「高き所(異教の神さまの祭壇)」の影響を受け続け、その結果「主の目にかなうことを行わなく」なってしまったのでしょう。
 私たちもそうならないために、日々「悪」「罪」をしっかり取り除き、悔い改めと赦しをいただいて歩ませていただきましょう。         (吉持日輪生)