「主の懲らしめ」の意味2022年11月06日

イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移した。   
    列王記第二 15章29節

 さて上記聖書箇所に登場する「イスラエル(北王国)の王ペカ」ですが、先週取り扱った列王記第二14章に登場した「ヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアム2世)」からすると、5人目の王さまです。そのため列王記第二15章を読んでいると、目まぐるしくイスラエルの王さまが入れ替わっています。さらにその途中でユダ(南王国)の王さまも登場するため、本当に読む私たちを混乱させます。
 そして「ヤロブアム2世」以降のイスラエル(北王国)の王さまの変遷を確認すると、イスラエル(北王国)の末期状況を感じます。イスラエルの王は、「ヤロブアム2世」以降次のように移り変わります。カッコの中は在位期間を記しています。8節「ゼカリヤ」(6ヶ月)、13節「シャルム」(1ヶ月)、17節「メナヘム」(10年間)、23節「ペカフヤ」(2年間)、27節「ペカ」(20年間)、そして30節「ホセア」(9年間)です。在位期間がとても短くなっています。
 そして27節に登場したイスラエルの王さま「ペカ」の時代に、冒頭に引用した出来事「その住民をアッシリアへ捕らえ移した」(29節)というアッシリアへの捕囚のことが記されています。まさにイスラエル(北王国)滅亡の足音が聞こえ始めています。
 前回は「あわれみ深い神さま」について触れましたが、神さまはイスラエルの民を目覚めさせるために、愛をもって、あえて困難な状況に置かれる神さまでもあります。新約聖書に次のようなことばがあります。

そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」          へブル人への手紙12章5~6節

 今週も「主の訓練(懲らしめ、しつけ)」を通して、悔い改めへと導かれ、神さまの元に立ち返って歩みましょう。               (吉持日輪生)

「悪」「罪」の影響の大きさ2022年11月13日

アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行わず、イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもに火の中を通らせることまでした。
         列王記第二 16章2~3節

 列王記第二16章に記されている内容は、ユダ(南王国)のことです。しかし、その内容は、これまでイスラエル(北王国)のこととして記されてきたのと同じような「主の目にかなうことを行わなかった」事柄が記されています。さらに興味深いことは、上記聖書箇所に記されているアハズ王の父ヨタム王について、「彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った」(列王記第二15章34節)と記されていることです。つまりアハズ王のお父さまも、さらにはおじいさまも、「主の目にかなうことを行っていた」にもかかわらず、悪は忍び寄り、アハズ王の時代には「主の目にかなうことを行わず」となってしまったのです。
 なぜでしょうか。その要因の一つと考えられることが、このように記されています。

彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。彼は主の宮の上の門を建てた。

                      列王記第二15章34~35節

 先程引用した列王記第二15章34節も含めて35節までを引用しましたが、ここに書かれている通り、アハズ王の父ヨタム王は「主の目にかなうことを行った」のですが、「高き所(異教の神さまの祭壇)は取り除きません」でした。
 おそらくアハズ王は、その「高き所(異教の神さまの祭壇)」の影響を受け続け、その結果「主の目にかなうことを行わなく」なってしまったのでしょう。
 私たちもそうならないために、日々「悪」「罪」をしっかり取り除き、悔い改めと赦しをいただいて歩ませていただきましょう。         (吉持日輪生)

何に従うのかが大事2022年11月20日

彼らは主の掟と、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告を蔑み、空しいものに従って歩んだので、自分たちも空しいものとなり、主が倣ってはならないと命じられた、周囲の異邦の民に倣って歩んだ。
          列王記第二 17章15節

 上記聖書箇所の「空しいものに従って歩んだので、自分たちも空しいものとなり」は、とても興味深いです。そしてこのような考え方は、旧約聖書の中に度々登場します。その一つが、詩篇115篇4~8節です。

4 彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。
5 口があっても語れず 目があっても見えない。
6 耳があっても聞こえず 鼻があっても嗅げない。
7 手があってもさわれず 足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。
8 これを造る者も 信頼する者もみな これと同じ。

 ここでも聖書は「これを造る者も 信頼する者も みなこれと同じ」と語ります。偶像に従うことは、やはり空しいことであり、なんの力にもなりません。
 一方、当然ですが、全知全能なる神さまに従う者に対して聖書は次のように語っています。

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
                       ピリピ人への手紙 4章13節

 また、死に打ち勝たれたイエスさまを信じる人に対しては、このように語っています。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
                        ヨハネの手紙第一 5章5節

 空しい偶像に従うのではなく、全知全能なる神さまに従い、死に打ち勝ち復活されたイエスさまにお従いする日々を、今週も歩みましょう。    (吉持日輪生)

「聖書」の面白さ2022年11月27日

国々の神々は、それぞれ自分の国をアッシリアの王の手から救い出しただろうか。ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリアを私の手から救い出したか。国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。主がエルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。        列王記第二 18章33~35節

 上記聖書箇所は、アッシリアの高官ラブ・シャケのことばです。今から2千数百年前にイスラエルの神(聖書が記している神さま)をののしった内容は、2千数百年の歴史を経て、聖書が語る神さまの真実さを証ししています。
 確かにここに記されている当時のアッシリアの力はすごかったことでしょう。ここに記されている「ハマテやアルパデの神々」「セファルワイムやヘナやイワの神々」の存在は、今日私たちも知らない神々ですが、同時にここで最高にたたえられているアッシリアの王も、その国も今は存在していません。
 けれどもここに記されている「イスラエル」も、聖書が記している神さまも、この言葉が語られた時代から2千数百年という年月を経た今も存在しています。存在するだけでなく、世界で数十億の人たちの信仰の対象として大切にされています。
 つまり21世紀を生きている私たちが、この「聖書」を読む時、イスラエルという国も、また聖書が記している神さまへの信仰も、絶滅、消滅の危機に直面しながらも、しかし今も、「聖書」は存在し、そこに記されている神さまへの信仰も残り続けています。しかも細々とではなく、世界にその信仰が脈々と受け継がれている現実があります。
 聖書が記している神さまは、歴史を通しても、私たちに語り掛けています。イエスさまが語られたこのことばにも目を留めましょう。

わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
 マタイの福音書28章20節

 今週も、この神さまに信頼して歩みましょう。        (吉持日輪生)