見えるようにしてください2022年09月04日

そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。       
                       列王記第二 6章17節

 列王記第二6章は、預言者エリシャの働きが列挙されています。「斧の頭を一本の枝で浮かばせる奇跡」(1~7節)、「アラム王の語ることばを、遠隔で知る力」(8~14節)。そして冒頭に引用した「目を見えるようにしたり、見えなくしたりする力」(15~23節)。そして24節以降は、サマリヤの大飢饉の話になります。
 このようなエリシャの働きの中で、教会や教会学校で良く取り扱われるのが、冒頭に引用した個所「目を見えるようにしたり、見えなくしたりする力」の個所です。「神の人(預言者エリシャ)の召使い」(彼、その若者)が、最初に見た物は、「町を包囲している」「馬と戦車の軍隊」でした。そういう意味で、「神の召使い」の目は、しっかり見ることができていました。しかし、預言者エリシャには見えているけれども、「神の召使い」には見えていないものがあったのです。ゆえに冒頭引用箇所で預言者エリシャは「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈り、その通りに「神の召使い」の目に「火と馬と戦車が…山に満ちていた」状況が見えるようになりました。
 私たちの目も、見えているけれども、神さまの御業まで見えていないことばかりです。見えている目の前の状況に、「神の召使い」と同様「ああ…どうしたらよいのでしょう」(15節)と焦り、動揺するばかりです。ここに登場した「神の召使い」の時代には預言者がいたように、今、私たちには「神のことば」である「聖書」があります。私たちも「神のことば」に促されながら、日々「見えるようにしてください」(17節)と祈りつつ、神さまに霊的な目を見えるようにしていただき、聖書の約束のことばに信頼し、目に入って来る状況に振り回されないようにしましょう。
 聖書には、たくさんの神さまの約束のことばが満ちています。私たちのまわりを「取り巻い」ているそのたくさんの「約束のことば」と合わせて、私たちが見ている状況を受けとめ、理解していくことが大事です。今週も神さまに「見えるように」していただいて、日々歩ませていただきましょう。     (吉持日輪生)

「神さまの力」を信じる者になろう2022年09月11日

エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」               列王記第二 7章1~2節

 上記引用箇所の預言者エリシャと王の侍従とのやり取りは、列王記第二6章の後半を思い出すとうなずけます。

サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。                     列王記第二 6章25節 

 さらに列王記第二6章26~29節には、大飢饉の中、自分の子どもを食べた話が記されています。そのような状況だったからこそ、王の侍従が、預言者エリシャのことばを信じることができず「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか」(2節)と答えたことは理解できます。
 まさにこの侍従は、状況を適切に見て、判断する能力を持っていましたが、しかし「神さまの力」を信じることができなかったのです。列王記第二7章を読み進めると、神さまは「町の門の入口にいた」「ツァラアトに冒された四人の人」(3節)を用いられ、また「アラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせ」(6節)、その中で「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」(6節)と思わせ、アラムの軍勢を散らされました。
 その結果、預言者エリシャの預言通り「上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた」(16節)のです。どんなに厳しい、困難な状況の中にあっても、私たちは「神さまの力」を信じる者として歩みましょう。
     (吉持日輪生)

「タイミング」を支配される神さま2022年09月18日

そのころ、王は神の人に仕える若者ゲハジに、「エリシャが行った大いなるわざを、残らず私に聞かせてくれ」と話していた。         列王記第二 8章4節

 上記引用箇所の「そのころ」とは、「(預言者)エリシャが、かつて子どもを生き返らせてやったあの女」(1節)が、飢饉の7年間を過ごしたペリシテ人の地から戻って来たタイミングのことです。そしてこの女性は、列王記第二4章に登場した「シュネムの女」のことです。
 さて神さまは、ペリシテ人の地から戻って来たタイミングに合わせて、王さまに「(預言者)エリシャが行った大いなる技を、残らず聞きたい」(4節)という思いを与えられ、神の人に仕える若者ゲハジから預言者エリシャの話を聞く機会を作られています。
 そして神さまは、そのタイミングで「シュネムの女」にイスラエルの地に「自分の家と畑を得ようと」させます。また「シュネムの女」が、ペリシテ人の地に住んでいた間に、恐らく他の人に「自分の家と畑」を占有されていたのでしょう。そのタイミングで、「シュネムの女」は、その状況を訴えに王さまのところ行きます。まさにそのタイミングが、神の人に仕える若者ゲハジが、王さまに「シュネムの女」の出来事を話していたのです。ですから「シュネムの女」が、王さまのところに来た時、ゲハジは興奮気味に次のように言っています。

ゲハジは言った。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」                  列王記第二 8章5節後半

 聖書の神さまは「時」を支配するだけでなく、「時」と「時」が出会うタイミングも支配されるお方です。「飢饉がおわりイスラエルに戻ってくるタイミング」「王さまが預言者エリシャの行った大いなる技を聞きたいというタイミング」、そして「シュネムの女が、王さまに相談しようとするタイミング」、それらの「タイミング」がちょうどよく重なっています。
 今日、あなたがここにいる「タイミング」も、いきなりと思える「タイミング」で起こる問題課題も、すべて神さまの御手の業です。私たちが、そのような神さまの「タイミング」に目を注ぐ時、今も生きておられる神さまに触れることができます。今週も神さまの「タイミング」に目をとめながら、生きておられる神さまと共に歩みましょう。                    (吉持日輪生)

「送り出す」神さま2022年09月25日

預言者エリシャは預言者の仲間たちの一人を呼んで言った。「腰に帯を締め、手にこの油の壺を持って、ラモテ・ギルアデに行きなさい。…」  列王記第二 9章1節

 列王記第二2章から登場した「預言者エリシャ」ですが、彼の活動を読み進めながら印象に残る特徴は、「送り出す人」というものです。例えば、上記引用箇所でも預言者エリシャは、「預言者の仲間たちの一人」に「ラモテ・ギルアデに行きなさい」と送り出しています。先週取り上げた列王記第二8章では、「かつて子どもを生き返らせてやったあの女(シュネムの女)」に「ここを去り、とどまりたいところに…寄留していなさい」(列王記第二8章1節)とやはり送り出しています。また列王記第二6章では、一緒に住んでいる場所が狭くなり、「ヨルダン川に行きましょう」(列王記第二6章2節)と言う預言者の仲間たちに「行きなさい」と送り出しています。
 この預言者エリシャの活動に見られる「送り出す」働きは、福音書のイエスさまの姿にもよく見られるものです。「12年の間、長血をわずらっている女の人」に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(マルコの福音書5章34節)と送り出しています。また目の見えないバルティマイには「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」(マルコの福音書10章52節)とここでも送り出しています。またイエスさまの元に運んで来られた中風の人には「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と家に送り出しています。さらにイエスさまが、72人を指名し派遣する時にも「さあ、行きなさい。…わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです」(ルカの福音書10章3節)と送り出しています。
 このように「預言者エリシャ」も、またイエスさまも、人々を送り出していますが、それは聖書の神さまが「送り出す」神さまだからです。「わたしのもとに来なさい」(マタイの福音書11章28節)と招かれる神さまは、「さあ、行きなさい」(マルコの福音書10章52節、ルカの福音書10章3節)と送り出す、派遣される神さまです。
 今週も、神さまの元に招かれ礼拝を献げた私たちは、その神さまの元から社会に「地の塩」「世の光」として送り出されて行きましょう。   (吉持日輪生)