エリヤとエリシャの違い2022年08月07日

エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。                     
                           列王記第二 2章2節

エリヤは彼に「エリシャ、ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコにやって来た。                        
                           列王記第二 2章4節

エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。
                           列王記第二 2章6節

 列王記第二2章では、預言者エリヤの後継者となるエリシャが登場します。しかし、上記に記されているエリシャの姿勢には、聖書が大切にしている「従順さ」を感じることができません。エリシャは、エリヤから3回「ここにとどまっていなさい」と言われたにもかかわらず、3回ともとどまらず、エリヤと一緒に出かけています。
 さらに9節で預言者エリヤから「『あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。』するとエリシャは、『では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください』と言った。」とありますが、ここからはエリシャの「貪欲さ」を感じます。不従順で、貪欲なエリシャ。
 しかし、神さまは、エリヤとエリシャの違いのように、違いのある人たちを選ばれるお方です。イエスさまが選ばれたお弟子さんたちもしかり。聖書に登場する信仰者たちもしかりです。そして私たちの教会に連なるクリスチャン一人ひとりを見てもしかりです。
 「自分と同じようなクリスチャンがこの教会にはいない」、これこそが「あなたがこの教会に導かれている意味」「存在理由」です。

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。 

                  コリント人への手紙第一 12章12節
(吉持日輪生)

主のみこころだけがなる2022年08月14日

そして、ユダの王ヨシャファテに人を遣わして言った。「モアブの王が私に背きました。私と一緒にモアブに戦いに行ってくれませんか。」ユダの王は言った。「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」                      列王記第二 3章7節

 上記聖書箇所を読んだ時に、「少し前にも同じような言葉を読んだぞ」となりました。探すとすぐに見つかりました。列王記第一の最後の章(22章)にありました。

そして、彼はヨシャファテに言った。「私とともにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。」ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」 
列王記第一 22章4節

 共通する「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです」という言葉を語っていたのは、ユダの王ヨシャファテでした。彼の口癖だったのかもしれません。列王記第一の方はイスラエルの王アハブの時代のことで、今回の列王記第二3章は、アハブ王の子ヨラム王の時代のことです。また列王記第一22章の方では、イスラエル王国とユダ王国の合同しての戦いの中で、アハブ王が亡くなりました。そのような出来事がまだ記憶に新しいことだったからこそ、イスラエル王は次のようなことばを発していました。

イスラエルの王は、「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言った。              列王記第二3章10節

すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」           列王記第二3章13節後半

 このような悲観的な思いに対してユダの王ヨシャファテは、「主のみこころを求めることのできる主の預言者」を求め、イスラエル王ヨラムの家来から預言者エリシャを紹介されます。そして預言者エリシャは「これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます」(列王記第二3章18節)と語り、神さまの不思議な御業の中で彼らは勝利します。
 私たちも過去を思い返し、現実を悲観してしまうことがありますが、そのような時も、常に神さまに聞くことから始め、神さまの不思議な御業による助け、救いを期待していきましょう。 (吉持日輪生)

「背後の戸を閉めて」従う2022年08月21日

家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。 
列王記第二 4章4節

 上記聖書箇所の「背後の戸を閉めなさい」ということばを読んで、創世記のある出来事を思い出している方がおられるのではないでしょうか。
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。
                             創世記 7章16節

 創世記7章に記されているノアの大洪水の場面でも「うしろの戸を閉ざす」行為が記されています。ノアの大洪水では、「主(神さま)」が「うしろの戸を閉ざした」とあり、列王記第二では「預言者を通して神さま」が、「背後の戸を閉めるように」語られています。
 「うしろの戸(背後の戸)を閉める」とは、いったいそこにはどのような意味があるのでしょうか。日本語の表現にある「退路を断って…」と重ねると、ノアの大洪水であれば「退路を断って、箱舟の中に入る」「箱舟を信頼する」ということですし、今回の列王記第二の個所では「退路を断って、預言者のことば(神さまのことば)に信頼する」ということでしょう。
 同時に聖書的な「戸(門)」には、領域の区別が込められています。例えば、神殿の「聖所」と「至聖所」の間には幕が設けられ、しっかりと区別がなされていました。その他にも「戸(門)」によって「内と外」「聖と俗」という区別を、神さまははっきりとしています。ノアの箱舟の「うしろの戸を閉ざす」ことで、「箱舟」の中を「聖なるところ」とされ、また列王記第二では、「背後の戸を閉める」ことで、「預言者の仲間の家」の中を「聖なるところ」とされたのでしょう。
 ですからイエスさまもこのように語られています。

すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」           ルカの福音書 9章62節

 私たちの信仰生活においても、「背後(うしろ)の戸を閉めて」、うしろを見ないで神さまにお従いし、神さまの豊かなあふれるばかりの恵みを体験させていただきましょう。 (吉持日輪生)

若い者、しもべたちを用いられる神さま2022年08月28日

アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。         
                   列王記第二 5章2節

 神さまは、若者も豊かに用いられます。今日の聖書個所の2節に紹介されているのが「一人の若い娘」でした。彼女の境遇は、決して恵まれたものではありませんでした。冒頭引用の2節に記されている通り、彼女は「イスラエルの地から捕らえられて来た」人でした。争いの中、住み慣れた地から、そして優しい父母兄弟から切り離され、異国の地に連れてこられたのでした。
 しかし、この「一人の若い娘」は、健気にアラム軍の長ナアマンの妻に仕えていました。その仕え方は、いやいやながらでも、仕方なくでもなく、ナアマンの妻の思いをくみ取り、共に悩み、共に考える人だったからこそ、3節の言葉が出てくるのでしょう。

彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」 
                   列王記第二5章3節

 そしてナアマンの妻とこの「若い娘」との間には、しっかりとした信頼関係ができていたからでしょう、この「若い娘」の言葉は、妻からご主人ナアマンに、そしてナアマンからアラムの王にと伝えられていき、その後ナアマンは、預言者エリシャのもとにたどり着きます。しかし、預言者エリシャの対応が、ナアマンがイメージしていたものではなく、彼はそのことに激怒しますが、その際にも神さまが用いられたのは「しもべたち」でした。

そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
                      列王記第二5章13節

 その後ナアマンは、このしもべたちの励ましに促され、預言者エリシャの言う通りにして癒されます。このように神さまは、時に「若い娘」を豊かに用い、また「しもべたち」を豊かに用いてくださるお方です。私たちも、教会に連なる「若い人たち」の声に耳を傾け、ナアマンのようにその声に謙遜に対応していく教会となれるように祈りましょう。                 (吉持日輪生)