道を教えてくださる神さま2026年03月01日

 主よ あなたの道を私に知らせ
 あなたの進む道を私に教えてください。
 あなたの真理に私を導き 教えてください。
 あなたこそ 私の救いの神
 私は あなたを一日中待ち望みます。   
                         詩篇25篇4~5節

 上記の聖書個所を読み、福音書に記されているイエスさまとお弟子さんとの会話を思い出しました。

トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
                         ヨハネの福音書14章5~6節

 いつの時代も、人は「道」を知りたいと思うのでしょう。詩篇作者も、そしてイエスさまのお弟子さんのトマスもです。そして神さまに「道」を求める時、私たちに「道」を教えてくださる神さまです。

 主は いつくしみ深く正しくあられます。
 それゆえ 罪人に道をお教えになります。 
                         詩篇25篇8節

 詩篇作者も、自分の過去の罪を自覚しつつ、罪人であった「私」に「道を教えてくださった」ことを思い返しているのでしょう。聖書が指し示す神さまは、罪人を突き放し、罪人を見放し、罪人を見捨てるお方ではありません。神さまの真実さ、神さまのいつくしみ深さゆえに、私たちに歩むべき「道」を丁寧に、あきらめることなく、時間をかけて教えてくださいます。
 いよいよ私も、4月から新しい教会、新しい地での歩みが始まろうとしています。考え出すと不安ばかりが出てきますが、だからこそ「道を教えてくださる」神さまにただただ祈り、すがりながら歩むしかないと思わされています。
 今週も「道を教えていただきつつ」日々歩みましょう。  (吉持日輪生)

誠実に歩むために2026年03月08日

 主よ 私を弁護してください。
 私は誠実に歩み
 よろめくことなく 主に信頼しています。       詩篇26篇1節

 しかし私は 誠実に歩みます。
 私を贖い出してください。あわれんでください。  詩篇26篇11節

 詩篇作者の姿勢が、上記2つの引用箇所に現れています。1節「誠実に歩み」、11節「誠実に歩みます」とあるように、詩篇作者は、誠実に歩むことを心がけています。
 けれども詩篇作者が置かれている環境は、なかなか厳しいものでした。

 私は不信実な人とともに座らず
 偽善者とともに行きません。
 悪を行う者の集まりを憎み 
 悪しき者とともに座りません。            詩篇26篇4~5節

 どうか私のたましいを 罪人どもとともに
 私のいのちを 人の血を流す者どもとともに 
 取り去らないでください。
 彼らの手には悪事があり 
 その右の手は賄賂で満ちているのです。    詩篇26篇9~10節

 誠実に歩もうとする詩篇作者の周りには「不信実な人」「偽善者」(4節)、「悪を行う者」「悪しき者」(5節)、「罪人」「人の血を流す者」(9節)、「手に悪事があり、賄賂で満ちて(いる者)」(10節)とあります。
 そのような状況、環境の中で、詩篇作者が誠実に歩むために行っていたことも記されています。

 手を洗い 自らの潔白を示します。
 主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。
 感謝の声を響き渡らせて 語り告げます。
 あなたの奇しいみわざのすべてを。
 主よ 私は愛します。 
 あなたの住まいのある所
 あなたの栄光のとどまる所を。          詩篇26篇6~8節

 詩篇作者は、「誠実に歩む」ために、「祭壇の周り」「感謝の声を響き渡らせ」「神さまの奇しいみわざを語り告げ」「主を愛し」「主の住まいのある所 栄光のとどまる所」を歩こうとしています。私たちも詩篇作者のように生きることで「誠実に歩む者」として今週も歩みましょう。               (吉持日輪生)

主を待ち望みつつ歩もう2026年03月15日

 主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。
 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。   
                          詩篇27篇1節

 詩篇27篇の作者は、力強く歌い始めます。反語的な表現を使い、「だれをも私は恐れない」「だれをも私は怖がらない」と始まります。
 さらに4節以降では、詩篇作者の神さまに対する一つの願いが記されています。

 一つのことを私は主に願った。
 それを私は求めている。
 私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
 主の麗しさに目を注ぎ
 その宮で思いを巡らすために。     詩篇27篇4節

 詩篇作者は、「いのちの日の限り 主の家に住むこと」「主の宮で思い巡らすこと」を願っています。このような詩篇作者ですが、私たちと同様、このような信仰者として力強い思い、願いは長続きしません。詩篇作者の中に不安が募ります。

 どうか 御顔を私に隠さないでください。
 あなたのしもべを
 怒って 押しのけないでください。
 あなたは私の助けです。
 見放さないでください。見捨てないでください。
 私の救いの神よ。             詩篇27篇9節

 神さまへの信仰は、常に一定でもなければ、常に右肩上がりでもありません。そのことを詩篇作者は、素直に表現しています。そして最後このように締めくくります。

 待ち望め 主を。
 雄々しくあれ。心を強くせよ。
 待ち望め 主を。             詩篇27篇14節

 信仰が順調な時も、絶不調の時も、私たちは常に変わることなく「主を待ち望みつつ」歩みたいです。今週もそのように歩みましょう。      (吉持日輪生)

とりなす者となろう2026年03月22日

 ほむべきかな 主。
 主は私の願いの声を聞かれた。       詩篇28篇6節

 詩篇28篇作者は、上記6節で「主は私の願いの声を聞かれた」と、すでに神さまが「私」の願いを聞いてくださったこととして語っています。しかし、その6篇が記されるまでの1~5節には、様々な詩篇作者の思い、叫びが書き残されています。

 どうか私に耳を閉ざさないでください。
 私に沈黙しないでください。
 私が 穴に下る者どもと同じにされないように。
 私の願いの声を聞いてください。
 どうか 悪者や不法を行う者どもと一緒に
 私を引いて行かないでください。
 彼らの行いとその悪にしたがって
 彼らに報いてください。
 その手のわざにしたがって彼らに報い
 その仕打ちに報復してください。       詩篇28篇1~4節(抜粋)

 このような様々な願いを、詩篇作者は神さまに祈り、叫び、訴え続けていく年月を経ながら、「主は私の願いを聞かれた」と叫ばずにはいられない経験へと導かれたのでしょう。
 そしてさらに詩篇作者のことばは、自分自身の経験、体験が、自分だけで終わらないように、「御民」「彼ら」へのとりなしの祈りへと広がっていきます。

 主は彼らの力。
 主は 主に油注がれた者の救いの砦。
 どうか御民を救ってください。
 あなたのゆずりの民を祝福してください。
 どうか彼らの羊飼いとなって
 いつまでも彼らを携え導いてください。    詩篇28篇8~9節

私たちも、詩篇作者のように自らの「主は私の願いを聞かれた」との経験、体験を、自分だけのものとして終わらせず、とりなし祈ることを通して、また語ることを通して、書き残すことを通して、さらに賛美することを通して、その祝福が広がっていくことを願う日々を歩みたいと思います。今週もとりなす者として歩みましょう。                            (吉持日輪生)