福音の再確認2018年06月03日

ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
          使徒の働き 11章20節

今回からバルナバコース第2回の内容である「福音」について見ていきます。福音とは「良い知らせ」の意味で、英語では「Good News(グッドニュース)」や「Gospel(ゴスペル)」とも訳される言葉で、キリスト教の救いのメッセージを表す言葉です。福音派(プロテスタント教会の一派)、福音宣教(もしくは福音伝道)、○○福音教会(教会の名前として)、そして教会福音賛美歌など、教会の内外で広く使われています。新約聖書の最初の4つの書物は「四福音書」と呼ばれ、マルコの福音書1章1節は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」という宣言で始まります。
それでは福音とは何でしょうか。前回まで取り上げたアンテオケ教会のキリスト者たちは、何を宣べ伝えたのでしょうか。キプロス人とクレネ人の幾人かがギリシヤ人にギリシヤ語で語った福音はどのような内容だったのでしょうか。福音を聞き、福音を受け入れて信じ、クリスチャンとして生きる者にとって、「何を信じているか」はとても大切な問いです。家族や友人、ご近所や周りの人々に福音を伝えようとするならば、福音に対する理解は大切なテーマです。『イエス・キリストの十字架による罪の贖い(身代わりに罰を受けること)を信じる時に、罪が赦されて、永遠のいのちを得ることができる(天国に行くことができる)』というのが、福音の最も簡単かつシンプルな説明でしょう。しかし、この福音を真剣に相手の心の中に入るように伝えるとなると、福音を提示している聖書とは何か、この世界を創造した創造主なる神はどんな方か、そしてイエス・キリストとはいったい誰なのかという話も必要になってきます。そして、福音を受け入れた後にどうなるのか。クリスチャンとしての新しい人生はどのようなものなのか。福音の全体像を知り、まず自分の人生とどう関係があるのかを確認することも大切です。それでは、次回からは福音の全体像について一つ一つ見ていきます。                           
(笠川路人)

福音はシンプル(簡単)か2018年06月10日

兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。              コリント人への手紙第一 15章1節

福音の全体像の話を始める前に、一つの大切な問いがあります。それは「福音はシンプル(簡単)なものかどうか」という質問です。世界中の人にイエス・キリストの福音をいかに分かりやすく、シンプルに伝えることができるか。これまでキリスト教会は福音の伝え方、説明の仕方について考えてきました。例えば、有名な伝道ツールである「四つの法則」はその代表例でしょう。「道端で初めて出会った人に対して福音を語り、信仰決心まで導く」ことが出来るようにと、聖書の語る真理とキリスト教の中心的な教えがまとまった小冊子です。しかし、もし福音が簡単で、分かりやすく、かつタダ(無料)で受けることができるならば、どうして日本において福音を伝え、信じてもらうことは簡単ではなく、難しいのでしょうか。キリスト教の教えは素晴らしいけれども、福音を受け入れることと、クリスチャンとして生きることの間には大きなギャップがあるとも言われます。
2000年前のクリスチャンにとっても、「福音」をどう理解し、信じるかということは大切な問いでした。パウロは今日の聖書箇所15章1節に続く2節において「また、もしあなたがたがよく考えもしないで(福音を)信じたのでないなら」と語りかけます。コリント人への手紙第一15章のパウロの福音に対する説明を読むときに、福音はキリストの復活の事実に基づくものであり、この世界の初めから終わりまでを含んだ壮大なスケールで提供される、神さまの恵みのわざであることを知ることができます。「信じれば救われる、罪が赦されて天国に行ける。」というシンプルにまとめられた福音の表現を越えて、2000年前にイエス・キリストの弟子たちが、そして使徒たちが命がけで伝えた福音とは何であった知ることは大切です。福音の深い理解が日本人の心を貫き、クリスチャンとして生きる私たちに希望と力を与えるものになることを願います。それでは次回から、福音の全体像を幾つかのポイントから学び、福音を受け入れ、福音に生きる人生はどのような歩みになるのかについて考えていきたいと思います。(笠川路人)

勝利のニュースと公共の政策告知2018年06月17日

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
                   ローマ人への手紙 1章16節

まず福音とは何かを考える上で大切なことは、聖書の中で使われている「福音」という言葉の原語の意味について確認することです。今から2000年前に福音書を記したマルコが、そしてコリント人への手紙を書いたパウロが、「福音」とその「宣教」という言葉にどのような意味の単語を用いたのかを見たいと思います。
古代ギリシヤ語の「福音」はユーアンゲリオン(εὐαγγέλιον)で、英語のevangelism(伝道)の原語となる言葉です。ユーアンゲリオンは当時の世界では、宗教用語ではなく、一般社会で使われる言葉で、「戦いの勝利を告げ知らせるニュース」という意味でした。古代ギリシヤにおいて都市国家同士が戦争する時には、お互いに城壁を出て平原で戦いました。戦いに勝利し、敵を打ち破った際には、馬に乗った伝令を走らせ、城壁に囲まれた都市にもどるやいなや、「勝ったぞー」と勝利の歓喜を叫びながら報告するニュースが、ユーアンゲリオンの元々の意味でした。つまり、聖書を記した著者は「福音」という言葉に、戦いの後に都市にもたらされる勝利のニュースというイメージを重ねました。イエス・キリストの十字架の死と復活の事実は、罪と死に囚われた人類を開放するための完全な勝利であり、この世界に宣言されるべき大ニュースです。当時のクリスチャン達は少数派であり、ギリシヤ・ローマ世界においては、ほんの小さい群れでした。しかし、彼らはイエス・キリストの復活の証人として、「福音」(ユーアンゲリオン)をはっきりと宣言し、勝利のニュースとして世界に宣べ伝えたのです。
更に、パウロが「宣教」(Iコリント15章14節)に用いた原語はケリギュマ(κήρυγμα)であり、当時の各都市の広場に張り出される、ローマ帝国からの政策告知に使われる言葉でした。「福音」は全世界にもたらされる勝利のニュースであり、「宣教」の言葉は公共の政策告知のように、各都市の中心で宣言されるべきものであるということです。「私は福音を恥とは思いません。」と証ししたパウロの思いを持って、福音を語るものとされたいと願います。(笠川路人)

福音は神さまが主体となって2018年06月24日

――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、              ローマ人への手紙 1章2節

前回は福音について、ユーアンゲリオン(εὐαγγέλιον)とケリギュマ(κήρυγμα)という二つの言葉から考察しました。福音とは勝利を告げ知らせるニュースであり、公共の政策告知のように、公の場において宣言されるものであることを知りました。今回は、福音は誰が考え、誰が提供するものかについて考えましょう。新約聖書の中には、福音が説教の中で語られ、具体的に説明される箇所があります。使徒の働きでは、ペテロやパウロが福音的な説教を群衆に語り、パウロはローマ人への手紙やコリント人への手紙第一(特に15章)で、福音について説明しています。イエスさまご自身も、「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」(マルコの福音書1章39節)で、福音を宣べ伝えています。それぞれに、ペテロの福音、パウロの福音、イエス・キリストの福音と呼ぶこともあると思いますが、いったい福音は誰から始まり、誰によって完成されたのでしょうか。福音は人間の願いや夢、アイデアによって生み出されたものではなく、この世界を創造した唯一の神さまからの勝利のニュースであり、良い知らせです。つまり、福音は神さまが主体となり、考え、計画し、人類の歴史の中で実行して、完成されたものです。人間は天地創造において「神のかたち」に創られたにもかかわらず、罪の影響により、そのあるべきかたちを棄損してしまいました。しかし、神さまはイスラエル民族を選び、神の民としての律法と契約を与え、このイスラエル民族を通して救い主をこの世界に送ります。その救い主こそ、神の子イエス・キリストであり、福音の中心はイエス・キリストという人物とその生涯にあります。神さまが主体となり計画された福音は、人類の歴史を通して壮大なスケールで提供され、私たち一人一人の人生を大きく変えるものです。それでは次回は、福音の中心であるイエス・キリストから学びます。(笠川路人)