教会のビジョン、アンテオケ教会の始まり2018年03月25日

「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んでいったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。」                使徒の働き11章19節

バルナバコースの第1回目は教会のビジョンについて学びます。ビジョンとは、「将来どのような発展を遂げていたいか、成長していたいかという構想や未来像」です。茨木聖書教会にはアンテオケ的センター教会というビジョンがありますが、それは使徒の働きのアンテオケの教会を模範とし、大宣教命令を忠実に実行するビジョンです。このビジョンが与えられた1984年当時は、「500人からなるセンター教会、献身者の派遣、教会を生み出す、宣教師を派遣する」という具体的な目標とともに、宣教プランが進められて行きました。現在までに、3つの教会を新たに生み出し、25年前に新会堂(水尾)を献堂しました。更には、30名以上の牧師、牧師夫人そして宣教師を各地に派遣してきました。現在は「アンテオケ2000プラン」に基づき、「茨木聖書教会が推進する6つの働き(伝道、交わり、教育、奉仕、礼拝生活、派遣)」に取り組んでいます。このアンテオケ教会のビジョンを通して、神さまは数多くの恵みと祝福を与えて下さいました。このバルナバコース1回目は、使徒の働きからアンテオケ教会について深く学ぶことを通して、神さまがアンテオケ教会に与えられた素晴らしい恵みと賜物について確認します。
使徒の働き11章19節を見ると、迫害によって散らされた人々が、エルサレムから各地方まで逃げて行って、そこで教会が形成されていったことが分かります。当時、アンテオケはローマとアレクサンドリアに次ぐ、ローマ帝国内第三の都市で、当時の人口は25万人(うちユダヤ人は2.5万人)と言われています。激しい迫害によって命からがら逃げて来た人々が、親類や縁者を頼ってアンテオケまでたどり着いたのは容易に想像できます。そこから想像できることは、アンテオケ教会は現在で言う、難民のような人々が集まってできた教会であり、もちろん経済的困窮もあったでしょう。しかし、イエス・キリストに対する信仰を堅く守り、寄り添い助け合う共同体でした。「難民の教会」これがアンテオケ教会の原点でもあります。
次回は、19節の後半にある、アンテオケに出来た最初の教会が、なぜユダヤ人以外にみことばを語らなかったのかについて、見ていきたいと思います。 (笠川路人)

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