「のろい」から贖い出してくださるイエスさま2018年02月04日

 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。           申命記21章22~23節

 上記聖書箇所を読み、新約聖書のどこかで読んだことがあると感じられた方は、それなりに聖書に精通している方でしょう。その通り、新約聖書のガラテヤ人への手紙3章13節に「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」の箇所で申命記のことばが引用されています。
 申命記の「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」と、ガラテヤ人への手紙の「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」の「木につるされた者」「木にかけられる者」を、イエスさまの十字架と重ねているのです。つまりイエスさまの十字架は、私たちの罪の身代りであると同時に、律法を守ることのできない私たちへの神さまからののろいの身代りでもあるのです。
 ですから日々の生活の中で、自分はのろわれているのではないかと感じる時、例えば身のまわりに良くないことばかりが頻繁に起こっている時など、日本ではお祓いをしてもらった方が良いのではと言われたりします。けれども「神さまからののろい」は祓って取り除かれるようなものではありません。だからこそ、イエスさまの十字架による贖いが必要です。
 私の人生の中で、またあなたの回りの方の人生の中で、のろわれているのではないかと心配になる状況があるならば、イエスさまの十字架を紹介し、伝えましょう。イエスさまの十字架は、あなたに降り注ぐ、どんな「のろい」からも、ひとりひとりを贖い出してくださいます。(吉持日輪生)

証人となるために、知らぬふりをしていてはならない2018年02月11日

 あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。申命記22章1節

 申命記22章には、上記と同じようなことばが、1節以外にもいくつか出て来ます。3節「彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない」。4節でも「あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない」。
 新約聖書において印象に残る「見ぬふり、知らぬふりをして、助けなかった」場面は、ルカの福音書10章30節から記されている「良きサマリヤ人」です。イエスさまの有名なたとえばなしの一つですが、その話に最初に登場する祭司とレビ人は、強盗に襲われ半殺しになった人の反対側を通り「知らぬふりをして」通り過ぎて行ったと記されています。
 さて私たちが、「知らぬふりをしてはならない」理由は、大きく二つです。「良きサマリヤ人」のたとえを通して、イエスさまが「あなたがたも行って同じようにしなさい」(ルカの福音書10章37節)と促されているゆえに、私たちも「良きサマリヤ人」の姿に倣い、倒れている方に関わる必要があります。
 またもう一つの理由は、使徒の働き1章8節の最後「わたし(イエス・キリスト)の証人となります」です。「イエスさまの証人」となるために、私たちは日々様々なことの証人となる意識と訓練が必要です。そのような証人としての取り組みが、私たちの口を通して語られる「イエス・キリストは救い主です」との証言にも耳を傾けてもらえることになるのでしょう。
 今週も「イエス・キリストの証人」となるために、様々な身のまわりのことがらに関心を持ち、見て知らぬふりをすることのないようにしましょう。
(吉持日輪生)

のろいを祝福に変えられる神さま2018年02月18日

  しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。     申命記23章5節

 「のろい」「のろう」ということばを調べると、旧約聖書で92回、新約聖書で10回の合計102回登場します。この数字からもわかるように、圧倒的に旧約聖書の方が、「のろい」「のろう」ということばがよく出てきます。
 旧約聖書では、創世記12章でアブラハムへの約束の中でこのように書かれています。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12章3節)。「アブラハムをのろう者をわたしはのろう」というのが、旧約聖書における神さまの考えでした。それが新約聖書になるとイエスさまは、次のように語られています。「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6章28節)。イエスさまは、「のろう者を祝福しなさい」と語られています。
 この違いは、どこからくるのでしょうか。それは、イエスさまの十字架です。イエスさまが、旧い契約において私たちが負わなければならないすべての「のろい」を身に受けて、十字架上で死んでくださったゆえに、私たちは「のろい」を負わなくてもよくなったのです。まさにそこに上記申命記にある通り、「神さまの愛」があるのです。
 ですからイエスさまは、「あなたをのろう者を(イエスさまにあって赦し)祝福しなさい」と語るのです。
 さてあなたの回りにも、様々な「のろい」を気にしていて、「のろい」に不安や、恐れを感じている方がおられるのではないでしょうか。私たちはそのような方々に、このイエスさまの十字架の福音を伝える必要があります。
「あなたは、決してのろいを受けることはありませんよ。イエスさまが、あなたの受けるべきのろいをすべて引き受けて死んでくださったのだから大丈夫ですよ」と、イエスさまの十字架のメッセージを届けていきましょう。
     (吉持日輪生)

昔からの聖書の神さまの思い2018年02月25日

①隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。 申命記24章10節
②日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。           申命記24章13節
③貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。           申命記24章14~15節
 
 これら申命記24章に記されている内容を読んで何を感じるでしょうか。①では、貧しさゆえに何かを借りなければならない人の「担保」について言及し、②ではその「担保」を日没まで、つまり一日の終わりまでには返すことが記され、③では貧しく困窮している人や、厳しい生活の中にある在留異国人について言及しています。
 これらの言及を読みながら、私は、聖書の神さまが数千年前の時代から弱さを覚えている方々への愛の取り組みについて具体的に記していることへの驚きを覚えます。そしてその驚きは、もう一つの側面、このような戒めを書かなければならない状況、つまり弱さを覚えている人々が、ないがしろにされ、益々生きるのが辛い状況に追いやられていく時代でもあったことです。
 そして、今、私たちが生きている時代も、変わることなく、生きるのが辛い状況の中にある方々が周りに存在し、またその方々が蔑ろにされていく状況も残り続けています。
 ですから私たちは、この昔からの神さまの思いを受け止め、この時代の中にあっても応えていく必要があります。今週も、弱さの中にある方々への具体的な愛の取り組みを覚えつつ歩みましょう。       (吉持日輪生)